小林国行

小林国行(こばやしくにゆき)  

太刀
銘 国行
三尺一寸七分

由来  

  • 明徳の乱で山名氏清に従って戦った小林上野守所持にちなむ。
    小林義繁、通称は上野守。山名氏清に仕え、明徳の乱の際には氏清を諌めるが聞き入れられず、兵を率いて出陣。幕府方の大内義弘と激戦を繰り広げた。※上野は親王任国であり正しくは"上野介"。

明徳の乱  

開戦まで  

  • 成立直後の室町幕府は守護大名の連合の上に成り立っており、足利将軍家の権力基盤は脆弱であった。
  • 3代将軍に推された義満は、当初細川頼之の補佐を得て将軍権力を伸長させ、その後まず美濃、尾張、伊勢3か国の守護であった土岐氏を弱体化し、その後「六分一殿」と呼ばれた山名氏を標的に据える。
  • 明徳2年(1391年)、義満は山名氏に対して挑発を仕掛け、12月19日には山名氏謀反の報が幕府側に入る。12月25日義満は軍評定を開くが、強大な山名氏を前に和議論が主流を占める中、義満は開戦に踏み切る。

戦いの経緯  

  • 幕府軍は主力5千騎を京都内野(旧大内裏)に展開し、義満と馬廻(奉公衆)5千騎は堀川の一色邸で待機した。
  • 山名軍では決戦を12月27日と定め、山名氏清の軍勢3千騎は堺から、山名満幸の軍勢2千騎は丹波から京都へ進軍する。

決戦  

  • 12月30日早朝、山名氏清の弟山名義数、小林上野介の700騎が二条大宮に攻め寄せ、幕府方の大内義弘300騎と激突して合戦が始まった。
  • 大内勢が下馬して雨のように矢を射かけたため、戦いは乱戦となり劣勢となった山名義数、小林上野介は討ち死に覚悟で突撃する。この時、大内義弘は小林上野介と一騎討ちをして負傷しながらもこれを討ち取った。
  • 次いで、山名満幸の軍勢2千騎が内野へ突入した。守る幕府軍は細川頼之・頼元兄弟、畠山基国、京極高詮の3千騎で激戦となるが、義満の馬廻5千騎が投入され勝敗は決した。敗れた満幸は丹波へ落ちる。
  • 続いて氏清の軍勢2千騎が二手に分かれて突入し、大内義弘、赤松義則の軍勢と衝突する。氏清は奮戦するが義満が援軍を寄越し、一色氏と斯波義重の軍勢が加勢したために幕府軍は盛り返す。氏清の軍勢は浮き足立ち、義満自らが馬廻とともに出馬するに及び潰走した。氏清は落ち延びようとするが、一色勢に取り囲まれて一色詮範・満範父子に討ち取られた。
  • 幕府軍の死者は260人余、山名軍の死者は879人であったという。

来歴  

  • この京都内野の合戦で、小林上野守は「鬼ここめ」と称されるほどの獅子奮迅の戦いぶりを見せる。

    西国に名を得たる大内勢と、中国にては勇士のきこえある山名方の鬼こゝめなれば、互いに勇み進みて、ただ死を限りに戦う者はあれども、命を惜しみて一足も退く者はなかりけり

    「鬼ここめ」のここめとは妖怪、醜女、化物などを表す言葉で、それに鬼が付いたもの。

  • さらに、来国行を振るい大内左京大夫義弘の左手を二箇所斬るが、逆に薙刀を内兜に突っ込まれ、さらに片股を斬り落とされ、ついに討ち死にした。
  • この小林上野守の振るった来国行がその後も残り、約100年後、大乗院門跡尋尊が記した「大乗院寺社雑事記」の延徳四年(1492年)正月廿八日条に登場する。

    一祐松瓶子等持参了、春円大進上用小林上野守所持之太刀、明日可京云々、入見参、其興在之

  • また弘治2年(1556年)3月の奥書がある「本阿弥光心押形」にも三尺一寸七分として載っている。※明徳記では二尺八寸という。


  • この戦いで大内左京大夫義弘が振るった薙刀は、その後「小林薙刀」と名付けられ、大内家滅亡まで所蔵された。
  • 小林薙刀」の項参照