実休光忠

実休光忠(じっきゅうみつただ)  


銘 光忠
名物 実休光忠
長二尺三寸

  • 備前長船光忠の作
  • 古くは「三雲光忠」とも。
  • 刃長二尺三寸(70cm)
  • 享保名物帳の焼失之部に記載されている

    実休光忠 長二尺三寸 無代 信長公御物
    三好実休所持、表裏樋、切込十八有り、本能寺にて焼る、秀吉公焼直し仰付られ御指なさる

  • うぶ中心、「光忠」の二字銘。

由来  

  • 元は江州甲賀郡の三雲城主三雲対馬守定持の所持したものといい、のち愛刀家であった三好義賢入道実休が入手し、「三雲光忠」と呼んだという。
  • 久米田の戦いで実休は討死した際に敵将の畠山高政がこれを分捕り、永禄11年に信長に献上する。その後は「実休光忠」と呼ばれた。


来歴  

  • はじめ三雲定持が所持
    三雲氏は甲賀五十三家の一つで、六角氏重臣。永禄6年(1563年)10月の観音寺騒動では、定持は蒲生定秀らと共に奔走し収束させている。長子の賢持は永禄9年(1567年)の浅井軍との戦いで討死する。賢持の息子三雲賢春(定持孫)は、真田十勇士猿飛佐助だとする説がある。
     元亀元年(1570年)、野洲河原の戦いで三雲定持は討死し、家督は次男の成持が継いだ。成持も重用され、後藤秀勝、蒲生賢秀、平井定武、目賀田綱清、進藤貞治らと並んで六角六宿老と呼ばれた。
  • のち三好実休(義賢)が入手。
    三好実休は三好元長の次男。兄が三好長慶、弟に安宅冬康、十河一存、野口冬長がいる。武野紹鴎に茶道を学び、津田宗達(津田宗及の父)や、今井宗久、北向道陳、千利休などとも交流し、さらに堺の妙国寺[朱銘長義の項参照]を創建している。特に茶道に傾倒し、名物(茶器)を五十種類も所持していたという。
  • 永禄5年(1562年)3月5日久米田の戦いにおいて、実休が泉州南郡八木の久米山寺で流れ矢に当り陣没した際、敵将の畠山高政がこれを分捕った。
    畠山高政は「薬研藤四郎」の逸話に登場する畠山政長の孫である政国の嫡男で、政長の曾孫にあたる。
  • 畠山高政はその後永禄11年(1568年)に上洛した信長に拝謁し、この光忠を献上、旧領の一部が安堵された。
  • 天正8年(1580年)2月22日に津田宗及らが安土城でこの光忠を拝見している。
  • 本能寺の変で自害した織田信長が最後に振るった刀で、奮戦したため切込みが十八ケ所も出来ていたと言う。
  • 変後、焼身で見つかった光忠は、秀吉が信長の形見として焼き直し愛刀にしたという。しかし豊臣家御腰物帳では「七之箱下之御太刀」に納められた。
  • 大坂落城後は焼身として家康に献上された。


エピソード  

  • 天正8年、信長は堺の豪商らを安土城に呼び付けた上で自慢の二十五腰の光忠を見せ、目利と言われる木津屋に実休光忠はどれか当てさせたところ、木津屋が見事当てた。
  • 理由を尋ねると、実休が最期の時、根来法師の往来左京の脛当を払ったために切先の刃が少しこぼれたと聞いており、その話しを元に当てたという。
  • 信長大いに喜び常の差料として愛用したという。

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