宇佐美長光

宇佐美長光(うさみながみつ)  


長光
宇佐美長光
二尺四寸五分
重要美術品
伊達市開拓記念館所蔵(北海道伊達市)

由来  

  • 上杉家の家臣、宇佐美駿河守定行(宇佐美定満)の所持にちなむ。

来歴  

  • 8代将軍足利義政の所持という。
  • 畠山政長が河内金胎寺城に立て籠もった畠山義就を攻めた際に、越後琵琶城主であった宇佐美左衛門尉政豊も寄手として参戦していた。寛正3年(1462年)落城間近になったとき宇佐美政豊は先頭に進み目覚ましい働きを行ったため、それを賞して将軍義政より備前長光の刀を拝領したという。
    • その後政豊四代の孫越中守孝忠が越後守護上杉家の重心として武州川越に遠征した際、敵の物見がただ一騎槍持ち一人を連れて進み出た。それを見た孝忠が馬で駆け寄り、拝領の長光で一刀で斬り捨てた。返す刀で槍持ちを払ったところ槍持ちが槍の柄で受けたので、それを切り折った上で、槍持ちの首を向かい歯まで切り下げたという。
    • 孝忠嫡子の宇佐美駿河守定行が所持する。
  • 定行は永正6年(1509年)に上杉定実を迎えて屋形とすると、長光を献上している。
  • 上杉定実には嗣子がなく、伊達実元を養子に迎えることになり、天文11年(1542年)、越後上杉家から、伊達成実の父である伊達兵部実元にこの長光が贈られた。

    天文十一年壬寅六日。自越後直江大楽両使。来迎公子五郎殿。贈為重代腰刀宇佐美長光竹雀幕。且賜実一字。約為上杉兵庫頭定実養子。因以六月廿三日発遣。然廿日不意内乱起。終不果

  • その後亘理伊達氏に伝わり、金二十枚の折紙がつく。
  • 明治維新後に伊達男爵家に渡り、昭和15年(1940年)国の重要美術品の指定を受ける。
  • 北海道伊達市にある伊達市開拓記念館に所蔵されている。




竹に雀紋  

  • 元々、「竹に雀紋」は六波羅探題が使用した紋で、平氏没落後に藤原氏勧修寺経房が勧修寺家の家紋(勧修寺笹)とした。
  • 勧修寺重房(上杉重房)を祖とする関東管領の上杉家(山内上杉家、扇谷上杉家)も同様に竹に雀紋を使用する。越後の上杉家もその後裔であるためにこれを用いていた。後に会津若松から米沢に移った後もこれを用いている。
  • それが養嗣子になる際に伊達実元に贈られた後に、雀を柿色に変更した上で伊達宗家でも使うようになった(仙台笹)。分家の伊予国宇和島伊達家も使用しており、こちらは宇和島笹と呼ばれる。
  • さらに、最上義守(義光の父)の娘義姫が伊達輝宗(政宗の父)に嫁いだ際にも伊達家の竹に雀の紋が贈られている。
    もちろん細かな部分で意匠は異なっており、伊達家中では笹の枚数が細かく異なる。伊達宗家の当主は内外52枚で、家族は48枚、一門はこの枚数を超えないと定めてある。亘理家は内外36枚、角田石川家は内外26枚、宮床伊達家は内外30枚、他が内外9枚などと決まっている。




宇佐美定満(うさみさだみつ)  

  • 越後守護上杉定実の配下であった宇佐美房忠の子に生まれる。
  • 定満は、越後守護の上杉氏の一門定実の出身家柄でもある上条上杉家に仕える。天文4年(1535年)に、定実の弟上条定憲と共に上条上杉家の再興を目指して長尾為景と戦ったが、天文5年(1536年)に春日山城下で敗北すると、為景に降伏した。
  • 為景の死後、その子の長尾晴景、そして長尾景虎(上杉謙信)に仕えた。
  • 永禄年間にはすでに70歳を超えており、老齢で現役から隠退していたといわれる。
  • 17世紀中に紀州藩に仕えた軍学者宇佐美定祐が、当時流行していた武田信玄の軍法と称する甲州流軍学に対抗して上杉謙信の軍法として越後流軍学を唱えた時、自身の先祖と称する「宇佐美駿河守定行」という人物を上杉謙信の軍師にして越後流軍学の祖であると仮託し、架空の軍師宇佐美定行の名が広く知られるようになる。そのモデルはこの宇佐美駿河守定満であると考えられている。


伊達実元(だてさねもと)  

  • 伊達稙宗の子として生まれる。幼名は時宗丸。
  • 亘理伊達氏の祖、伊達成実の父。

上杉定実の養子入り  

  • 母が越後鳥坂城主中条藤資の妹であることから、越後守護上杉定実の養子に入ることになり、定実から一字を拝領して実元と名乗るなど準備が進められた。
    • 長尾為景の没後、中条藤資は伊達稙宗の三男実元を上杉定実の養子に迎え入れ、伊達氏の援助の元で守護権力の復活を図った。
    • 現在伊達氏の家紋として有名な「竹に雀」、名刀「宇佐美貞光」は、共に実元に贈られた引出物である。

天文の乱  

  • しかし、天文11年(1542年)、稙宗が越後に向かう実元に家中の精鋭100騎を随行させようとしていることを知った実元の兄晴宗がこれに反発したことから、父稙宗を西山城に幽閉する。
  • 西山城からの脱出に成功した稙宗は晴宗に対して兵を向け、ここに南奥羽全域を巻き込んだ天文の乱が勃発する。
  • 実元は稙宗方に属して信達地方で奮戦したものの、乱が晴宗方の勝利に終わると実元は晴宗に降伏し赦免された。同時に越後でも入嗣反対派が抗争に勝利したため、実元の上杉氏への入嗣案は立ち消えとなった。

信達地方領主  

  • 乱後に晴宗が米沢城へと居城を遷すと、晴宗の二女を娶って大森城主となった実元が晴宗に代わって信達地方の統治を担うことになった。
  • 天正11年(1583年)、嫡男成実に家督を譲り八丁目城に隠居し棲安斎と号したが、隠居後も引き続き一門の長老として外交・調略に従事し、成実と共にたびたび政宗の苦境を救った。

亘理城主(成実)  

  • 息子成実が慶長7年12月(1603年2月)に亘理郡亘理城主となり、江戸時代を通じて家中最大の24,385石を領し亘理伊達氏と呼ばれた。

北海道伊達市  

  • 伊達家は戊辰戦争において奥羽越列藩同盟の盟主となり、敗北にともない所領を失う。第14代亘理伊達当主伊達邦成は、家中を率いて数度に渡り北海道に移住して現在の伊達市を開拓。「宇佐美長光」も伊達市開拓記念館に所蔵されている。また実兄にあたる伊達邦直は当別町の基礎を築いている。