大西左文字

大西左文字(おおにしさもんじ)  


大磨上無銘
名物 大西左文字
二尺三寸

  • 享保名物帳所載

    大西左文字 磨上長二尺三寸 代金百三十枚 有馬中務殿
    浅野但馬守御家来大西半太郎所持、利長公御求め土井大炊頭殿へ遣わされ御城へ上る、日光石垣出来の時、有馬玄蕃頭殿拝領

由来  

  • 浅野長晟の家臣、大西半太夫所持にちなむ。

来歴  

  • 元は浅野長晟家臣の大西半太夫が所持していた。本阿弥光徳大左文字と極め、千貫の折紙をつける。
  • その後前田家が買い上げている。
    • 名物帳では前田利長(加賀前田家2代)が買い求めたとするが、時期的に無理があるため購入したのは加賀前田家3代の前田利常であるとする。
    • 浅野長晟は浅野長政の二男で、兄の幸長が病死して家督を継ぐのは慶長18年。
    • いっぽう前田利長は、慶長10年には異母弟の利常を養子に迎え、富山城に隠居している。また慶長15年には梅毒による癰(よう、はれもの)が悪化したと伝わっており、刀を購入するのは無理がある。利長は翌19年に病死(服毒死説あり)、その年末には大坂冬の陣が起こっている。
  • のち前田家から土井利勝に譲られ、土井利勝から3代将軍家光に献上された。
    • 本多上野介正純ともいう。ただし土井家の小姓大野智碩が大西左文字は土井家から将軍家へ献上したと証言しており、土井利勝であるとされる。
    • 寛永6年(1629年)8月28日に秀忠が土井邸に御成になっており、左文字を献上している。これが大西左文字であるとされる。
  • 日光東照宮で寛永の大造替が行われた際に有馬頼利が石垣を築いて献上したため、慶安3年(1650年)7月22日にこれを拝領した。

    有馬中務少輔忠頼を召て。去年より日光山石垣修築し速に成功せしとて。御感の旨褒詞を給ひ。左文字の御刀さづけられ就封の暇を給ふ。

  • 筑後久留米藩有馬家に伝わる。寛文8年(1668年)8月に本阿弥家に鑑定に出し、百三十枚の折紙が付いた。
  • 明治14年頃に刀剣商の小倉惣右衛門に払い下げた三十余振りの中に紛れ込んでおり、あとで気付き返還させている。この時の売価が七十五円であった。
  • 大正14年の売立で大阪の河瀬虎三郎が二千六百五十円で落札している。
  • 正和10年の河瀬家の売立において落札値が五千六百円に上がっている。
  • 戦後、行方不明。


有馬頼徸(ありま よりゆき)  

  • 名物帳の「有馬中務殿」は久留米藩の第7代藩主有馬頼徸と思われる。
  • 「算学大名」として著名である。
  • 幕府からその才能を認められて江戸は増上寺の御火消役に任じられると共に、官位もそれまでの歴代藩主より上の左少将に叙任された。
  • また将軍が狩猟で仕留めた鶴を拝領できる「国鶴下賜」を3度も受けている。これは徳川御三家や伊達氏・島津氏・前田氏などの大藩しか賜れず、有馬氏は頼徸の時代に大大名と肩を並べる厚遇を受けた。
  • 頼徸は大名でありながら有職故実や様々な法令の知識に優れており、学問にも長けていた。
  • 特に頼徸が優れていたのは和算であり、関流の教えを継ぐ山路主住に師事してこれを学んだ。それまで52桁しか算出されていなかった円周率をさらに30桁算出し、小数の計算まで成立させた。
  • 明和6年(1769年)には豊田文景の筆名で『拾璣算法』5巻を著した。これは関孝和の算法をさらに研究し、進めた成果をまとめたものである。