大坂城五人衆

大坂城五人衆(おおさかじょうごにんしゅう)  

大坂牢人五人衆

Table of Contents

概要  

  • 大坂の役で大坂方に味方して大坂城に入城した5人の浪人のこと。
    1. 真田幸村
    2. 後藤又兵衛基次
    3. 明石全登
    4. 毛利勝永
    5. 長宗我部盛親
    • 特に順序は決まっていない。
  • いずれの武将も、江戸時代の講談で取り上げられ人気を得た。

真田幸村(さなだ ゆきむら)  

  • 真田信繁
  • 信州真田家の生まれ。

冬の陣  

  • 三の丸南側玉造口外に「真田丸」と呼ばれる土作りの出城を築き、大坂冬の陣では大坂城を囲んだ徳川方に対し数度に渡り打撃を与え名を轟かす。

夏の陣  

  • 幸村は大和方面から大坂へ徳川方先鋒として進んできた伊達政宗隊を道明寺に破り、一時的に後退させることに成功する。いったん大坂城に帰陣するが、豊臣方では後藤又兵衛木村重成など名のある武将が次々と討たれており、幸村は豊臣秀頼本人の出陣を願うも聞き入れられることはなかった。
  • 翌5月7日大坂城南方面に展開した大坂方において、幸村は最右翼に陣取る。この時幸村が進言したとされる作戦は、左右両翼に配した真田隊と毛利勝永隊により戦線を維持する間に遊撃隊の明石全登率いる軽騎兵団を迂回させ、合図とともに家康本陣を横撃させるというものであった。
  • しかし合図を待たずに毛利勝永隊が射撃を開始してしまったために作戦を断念せざるを得なくなり、「今はこれで戦は終わり也。あとは快く戦うべし。狙うは徳川殿の首ただひとつのみ」とつぶやき、家康本陣に向かって突撃する。
  • 真田隊は、越前松平家の松平忠直隊1万5千の大軍を突破、合わせて10部隊以上の徳川勢と交戦しつつ後方の家康本陣に突入し、親衛隊・旗本・重臣勢を蹂躙した。これにより家康本陣の馬印が倒され、家康は二度自害を覚悟したという。
  • しかし度重なる突撃で部隊は消耗し、遂には兵力で勝る徳川勢に追い詰められ、最期は四天王寺近く(天王寺公園北)の安井神社で休んでいる所、松平忠直隊の鉄砲組頭西尾宗次に発見され、「わしの首を手柄にされよ」と言い残し討ち取られたという。安井神社境内には真田幸村戦死跡之碑が残る。
  • 享年49。

後藤又兵衛(ごとう またべえ)  

  • 後藤基次
  • 黒田二十四騎」「黒田八虎」
  • 幼少の頃黒田如水(官兵衛孝高)に拾われ、黒田長政とともに育った。
  • 身長は六尺(180cm)を超えており、大坂の役の頃は肥満体の巨漢であったという。
  • 大坂の役には大野治長の誘いを受け、先駆けて入城している。旗頭として天満の浦での閲兵式の指揮を任された際、その采配の見事さから「摩利支天の再来」と称された。
  • 大坂浪人の名簿を見た家康は、「大阪方の浪人衆の中で、武者らしいのは、後藤又兵衛と御宿勘兵衛だけだ」と語ったという。

冬の陣  

  • 冬の陣では6000人の遊軍を任され、鴫野・今福方面を木村重成と協力して守備し、上杉及び佐竹勢と相対した。

夏の陣  

  • 戦いの前に、又兵衛と長宗我部盛親の旧知であった京都相国寺の僧揚西堂が家康からの使者として訪れ、播磨で50万石という法外な条件での帰順を持ちかけられたが、感激するもこれを拒絶したという。
  • 道明寺の戦いにおいて、大和路の平野部の出口・国分村での迎撃作戦の先鋒として2,800の兵を率い、6日の未明、平野郷から出陣した。
  • しかし、既に徳川方先鋒大将の水野勝成率いる部隊が国分村まで進出していたため、次善の策として、中間にあった小松山に布陣し寡兵ながらも抜け駆けしてきた奥田忠次(奥田忠高の子)を討ち取るなど、孤軍で奮戦し賞賛された。
  • しかし、後続の薄田兼相、明石全登、真田幸村らの軍が霧の発生により到着が遅れ、逆に伊達政宗の家臣片倉重長率いる鉄砲隊など、10倍以上となった相手に対し又兵衛は山を降りての展開・突撃を敢行し、乱戦の中に討死した。享年56。
  • 最期については諸説ある。
    1. 伊達家伝:片倉重長鉄砲隊が討ち取った
    2. 武功雑記:松平忠明配下の山田十郎兵衛が討ち取った
    3. 難波戦記:腰を撃たれ歩行不能となったため部下の吉村武右衛門に命じて介錯された

介錯した部下については、吉村武右衛門のほか、吉村武兵衛、金方平左衛門、金方平右衛門、金馬平右衛門、金万平右衛門、白川八衛門尉などの名前が各史料により様々に書かれる。
 金万(こんま・こんまん)氏は備前地方の地侍で、一族数名が宇喜多氏に仕えていた。大坂夏の陣では豊臣方として大坂城に入城し、又兵衛配下として動いていた。のち稲葉正成(春日局の前夫)に士官し、淀藩家老として存続した。

  • 2016年11月、介錯した人物のひとりとされる金万(こんま)平右衛門の子孫が写しとともに所蔵していた書付が岡山博物館で調査され、その結果、書付には瀕死の又兵衛を秀頼より拝領した行光にて首を掻き切ったこと、行光は秀頼に返したこと、首を持ち帰ることができなかったため又兵衛の折れた「かえり半月」という「指物」(旗印、あるいは刀)を討ち死の証拠として秀頼に差し出したことが記されていた。
  • 又兵衛の首の行方についても諸説ある
    1. 長沢聞書:一度は敵に奪われたものの、奪い返した後その首を深田に隠した
    2. 伊予古跡誌:後日、武右衛門に持ち帰られ、藤岡九兵衛が住職を務めていた伊予国の長泉寺に埋葬された

明石全登(あかし たけのり)  

  • 明石掃部、明石ジュスト
  • 備前保木城主の明石行雄の子として生まれる。父明石行雄は天神山城主の浦上宗景の家臣であったが、天正3年(1575年)9月の浦上氏滅亡の際には宇喜多直家に呼応して寝返り、以後は宇喜多家臣となる。
  • 父のあとを継ぎ明石全登も和気郡大俣城(大股城)の城主・家老となっている。慶長4年(1599年)にお家騒動(宇喜多騒動)が起き、4家老が出奔すると、明石全登は家宰として家中を取り仕切り、10万石を与えられる。
  • 関ヶ原の戦いの後、出奔。大坂の陣では大坂方につき、入城する。

夏の陣  

  • 慶長20年(1615年)の夏の陣では、まず道明寺の戦いに参加。後藤又兵衛が突出して戦死し敗れたが、全登隊は水野勝成・神保相茂・伊達政宗勢と交戦して混乱に陥れ、政宗と相茂の同士討ちを起している。
  • 天王寺・岡山の戦いでは、旧蒲生氏郷家臣の小倉行春と共に全登は300余名の決死隊を率いて、家康本陣への突入を狙っていたが、天王寺口で友軍が壊滅したことを知ると、水野勝成、松平忠直、本多忠政、藤堂高虎の軍勢からなる包囲網の一角を突破して戦場を離脱した。
  • その後の消息は不明で、諸説ある。
    1. 徳川方書物水野勝成家臣の汀三右衛門あるいは石川忠総が討ち取ったと伝える
    2. 大坂御陣覚書:戦死した
    3. 大村家譜など:嫡子内記と共に、九州に落ち延びた
    4. 仙台:秋田県比内町に明石全登の子孫と伝えられる一族があり、伝によれば大阪落城後に仙台で伊達政宗に保護される。しかし、幕府の詮議が厳しくなったので津軽に移動し、津軽信枚の保護を受けて弘前城内に匿われたという。
  • なお明石掃部は秀頼から名物一期一振」を拝領していたという説がある。
    • それによれば、大坂の役ののち権田五太夫から分捕品として献上され、その際に家康は「一期一振」は秀頼が明石掃部に与えていたものであり、分捕った時の様子を聞きたいと権田五太夫を呼び出したという。ところが、権田五太夫が明石掃部の顔を知らなかったために要領を得なかったという。しかし仮に分捕りであるとすると、焼けていたために再刃したことと矛盾することになる。


毛利勝永(もうり かつなが)  

  • 毛利勝信の子として尾張国に誕生し、父とともに秀吉に仕える。
    父の毛利勝信は本姓は森氏で、森吉成と名乗る。壱岐守、号一斎。古くから秀吉に仕え、黄母衣七騎衆の1人。
  • 天正15年(1587年)、父・毛利勝信は豊前国小倉6万石(一説に10万石)、勝永にも豊前国内に1万石(4万石とも)を与えられ、この時に森から毛利に改めたとされる。
  • 関ヶ原では西軍につき、伏見城の戦いで功をあげるも豊前では小倉城を黒田如水に奪われており、戦後改易となった。父と共にその身柄を肥後の加藤清正、次いで土佐の山内一豊に預けられた。
  • 大坂の陣の前、大坂方より招かれ土佐を出奔。この時留守居役に嘘をついて出たため、後に妻子は城内に軟禁されている。

冬の陣  

  • 勝永は、豊臣家の譜代家臣ということもあり、諸将の信望を得て大坂城の五人衆と称された。大坂冬の陣では、真田幸村らと共に出撃策を唱えたが容れられず、籠城戦では西丸ノ西・今橋を守備している。

夏の陣  

  • 5月6日、道明寺の戦いで敗退した後藤又兵衛らの敗残兵を、毛利勝永隊が収容。勝永は、自軍の中から抽出した鉄砲隊を殿に残し、勝永自身は本隊を率いて、大坂城方面に撤収した。
  • 7日の天王寺口の戦いでは、兵4千を率いて徳川家康本陣の正面、四天王寺南門前に布陣。戦闘が始まるや本多忠朝や小笠原秀政らを瞬く間に討ち取り、続いて浅野長重・秋田実季・榊原康勝・安藤直次・六郷政乗・仙石忠政・諏訪忠恒・松下重綱・酒井家次・本多忠純といった部隊を次々に撃破し、遂には徳川家康の本陣に突入するという大活躍を見せた。
  • しかし、真田隊が壊滅して戦線が崩壊すると、四方から関東勢の攻撃を受けたため撤退を決意。退却においても勝永の指揮ぶりは水際立っており、反撃に転じた藤堂高虎隊を撃ち破ると、井伊直孝や細川忠興らの攻撃を防いで、城内へ撤収した。
  • 8日、守護していた豊臣秀頼の介錯を行った後、息子である毛利勝家、弟の山内勘解由吉近と共に蘆田矢倉で静かに腹切って自害したという。

長宗我部盛親(ちょうそかべ もりちか)  

  • 土佐からでた四国の覇者、長宗我部元親の4男。
  • 天正14年(1586年)の戸次川の戦いで長兄の長宗我部信親が戦死したため、父の強硬な後押しがあり世子となる。
    母は石谷氏(石谷光政の娘)、正室は長宗我部信親の娘。
  • 関ヶ原の際には、当初、盛親は徳川家康率いる東軍に与しようと考えていたとされるが、近江国水口で西軍に属する長束正家に進路を阻まれ、西軍に与することとなる。
  • 東軍に与する伏見城や安濃津城などを落としながら関ヶ原に向かい、毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊・長束正家らとともに家康本陣背後の南宮山に布陣した。合戦においては徳川家康に内応する吉川広家によって毛利隊は動けず、毛利隊の後方に布陣していた長束隊や長宗我部隊も毛利隊の動向が分からず、動くことができなかった(宰相殿の空弁当)。
  • 戦後領土没収となり改易され、京都へ送られ、身一つの謹慎生活を送る事になる。

冬の陣  

  • 盛親は豊臣秀頼の招きに応じて京都を脱出する。わずか6人の従者と共に出発したが、土佐時代のかつての旧臣や浪人などと合流し1000人もの軍団となり、10月6日に大坂城に入った。
  • さらにこれに応じて長宗我部家の再興を願う旧臣たちも次々に入城し、大坂城に集結した牢人衆の中では最大の手勢を持つに至った盛親は、真田幸村後藤又兵衛、毛利勝永、明石全登とともに、いわゆる「五人衆」に数えられる主力部隊となった。

夏の陣  

  • 木村重成とともに徳川家康の本陣を突くべく5千余の主力軍勢を率いて出陣し、徳川方の藤堂高虎隊と激突する。大坂の陣屈指の激戦として名高い八尾・若江の戦いである。
  • 5月6日の未明、八尾に進出していた長宗我部隊の先鋒・吉田重親が藤堂高虎の軍勢と遭遇した。この時、長宗我部隊の先鋒は軽装備であったためすぐに本隊と合流しようとしたが、逆に藤堂隊にも発見されてしまう。鉄砲を撃ち込まれた先鋒は壊滅し、吉田重親は本隊に伝令を発したのち討ち死にした。藤堂隊は勢いに乗じて長宗我部本隊を殲滅しようと攻勢を強めるが、盛親は川の堤防に兵を伏せ、藤堂隊を十分に引き付けたところで槍を構えた兵を突撃させた。思わぬ猛反撃を受けた藤堂隊の先陣は一気に壊滅、盛親はなおも攻撃の手を緩めなかったため藤堂隊はほぼ全軍が混乱に陥り、高虎の甥の藤堂高刑など前線の将が一度に討ち死にする。統制が乱れた藤堂隊は高虎自身も逃げ回らざるを得ない潰走状態となった。
  • しかし、盛親隊と並行して若江へ進んでいた大坂方別働隊の木村重成が井伊直孝らの軍勢との戦闘で壊滅し、ほどなく井伊隊が藤堂隊の援軍に駆けつける。この報を受けた盛親は敵中での孤立を余儀なくされ、やむなく大坂城へ撤退した。
  • 八尾での先鋒隊壊滅、及び退却戦は長宗我部隊に少なからぬ痛手を与えたと考えられ、翌日の大坂城近郊での最終決戦には出陣せず、大坂城・京橋口の守備についていた。その後、天王寺・岡山の戦いにおいて大坂方の敗北が決定的になると「我ら運さえ良ければ天下は大坂たるよ」と言い残し、再起を図って逃亡した。
  • 5月11日に京都八幡(京都府八幡市)近くの男山に潜んでいるところを蜂須賀至鎮の家臣・長坂七郎左衛門に見つかり捕らえられる。その後、盛親は見せしめのために二条城門外の柵に縛りつけられた。そして5月15日に京都の六条河原で6人の子女とともに斬首され、三条河原に晒された。享年41。