多胡弥

多胡弥(たこや)  

  • 天武帝が用いたという間者。

概要  

  • 延宝4年(1676年)編纂の萬川集海に、天武天皇(673-686)が多胡弥を用いたとする。

    問曰吾邦にて此道何れの代より始れる哉

    答曰、人皇三十九代の帝天智天皇の御弟の尊をは天武天皇と申奉る、此御宇に当て清光の親王逆心企て山城国愛宕郡に城郭を構へ篭城しける所に、時に天武天皇の御方より多胡弥と云ふ者を忍ひ入れしかは、多胡弥忍ひ入て城内に放火しけれは、天武天皇外より攻玉ひしに、依て其城忽に落しと也。是吾邦忍術を用るの始めなり。此事日本紀に見へたり。

  • これは忍術書に書かれた記事だが、しかし「日本書紀」でも天武天皇が遁甲を能くしたという記述がある。

    原瀛真人天皇。天命開別天皇同母弟也。幼曰大海人皇子。生而有岐嶷之姿。及壮雄抜神武。能天文・遁甲

経緯  

  • さらに時代を遡ると、推古天皇の時代、推古天皇10年(西暦602年)に遁甲が百済の僧によりもたらされたと記されている。

    推古天皇十年冬十月、百済僧観勒来之、仍貢暦本及天文地理書、并遁甲方術之書也。

  • この奇門遁甲は元は中国で行われた占術である。しかし隋の文帝のとき(581-604)に発禁とされ、同様に日本でも「養老令」施行(757年)により禁じられた。

    凡玄象器物、天文、図書、讖書、兵書、七曜暦、太一雷公式、私家不得者、違者徒一年、私習亦同(職制律)
    凡秘書、玄象器物、天文図書、不得輙出、観生不得読占書(雑令)

  • この後、中国から百済を通じてもたらされた奇門遁甲は、日本の風土に合わせて改変された奇門遁甲ないし八門遁甲が生み出され、戦国時代にこの技術を用いる者が現れた。
  • このうち、この知識を軍配に用いたものが軍師と呼ばれ、諜報活動に用いたものは忍びとも呼ばれた。