坂上田村麻呂

坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)  

平安時代の武官
正三位、大納言兼右近衛大将兵部卿
田村将軍、坂上田村麻呂公
神号 田村大明神

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坂上氏  

  • 坂上氏は、姓は忌寸(いみき)

祖父:坂上犬養  

  • 田村麻呂の祖父坂上犬養(さかのうえ の いぬかい)は武芸の才能高く、第45代聖武天皇の信頼を得る。天平11年(739年)に従五位下を振り出しに、天平20年(748年)には従四位下と順調に昇進を果たした。
  • 天平勝宝8年(756年)に聖武上皇が崩御すると、山稜に仕えることを申し出、その誠実さを讃えられ正四位に叙せられている。天平宝字元年(757年)に発生した橘奈良麻呂の乱では乱に関与した藤原乙縄を捕らえるために、中納言藤原永手とともに右大臣藤原豊成邸に派遣されている。藤原仲麻呂政権下で、造東大寺長官・播磨守・大和守を歴任した。

父:坂上苅田麻呂  

  • 父の坂上苅田麻呂(さかのうえ の かりたまろ)は、大和守坂上犬養の子。
  • 坂上犬養同様に武芸に優れる。
  • 天平勝宝9年(757年)7月の橘奈良麻呂の乱の際、首謀者の一人である賀茂角足が、反乱時に敵側に加勢することを妨害する目的で事前に武勇に優れた人を集めて自邸で酒宴を開いた中に、この苅田麻呂も招待されている。
    この時、賀茂角足の自邸には高麗福信・奈貴王・坂上苅田麻呂・巨勢苗麻呂・牡鹿嶋足が集められた。
  • 天平宝字8年(764年)9月藤原仲麻呂の乱では、孝謙上皇の勅命を受け訓儒麻呂を襲って射殺し、この功により苅田麻呂は即日正六位上から従四位下と5階級昇叙の上、大忌寸の姓を賜与され、同年中に中衛少将・甲斐守に任ぜられた。
    孝謙上皇は第46代、第48代の天皇。父は聖武天皇、母は藤原光明子。天平勝宝元年(749年)に即位、その後天平宝字2年(758年)には病気になった母の光明皇太后に仕えるために退位し、大炊王(第47代淳仁天皇)が即位する。天平宝字4年(760年)7月に光明皇太后が崩御すると孝謙上皇と仲麻呂・淳仁天皇の関係は微妙なものとなり、同年9月藤原仲麻呂は乱を起こす。2日後に仲麻呂が近江で死ぬと、孝謙上皇は淳仁天皇を廃位(淡路廃帝)し、自ら重祚し皇位に復帰した(第48代称徳天皇)。この時に重用されたのが道鏡とされる。
     孝謙上皇は天武天皇の血を引くいわゆる天武系最後の天皇であり、また江戸時代初期に即位した第109代明正天皇に至るまで850年もの間、女性天皇が立てられることはなかった。
  • さらに苅田麻呂は、第49代光仁天皇の代には道鏡の奸計を告げ排斥した功により正四位下・陸奥鎮守将軍に叙任される。延暦5年(786年)1月7日死去。享年59。最終官位は左京大夫従三位兼右衛士督下総守。


坂上田村麻呂の生涯  

  • 田村麻呂は天平宝字2年(758年)に苅田麻呂の子として生まれる。次男または三男とされる。
  • 長じて近衛府に勤仕する。

蝦夷征討  

  • 第50代桓武天皇の時代、陸奥において蝦夷との戦いが激化しており、延暦8年(789年)には征東大将軍であった紀古佐美(き の こさみ)の率いる官軍が阿弖流為の率いる蝦夷軍に大敗している。
  • 田村麻呂はこの次の征討軍の準備に加わり、延暦11年(792年)に征夷大将軍大伴弟麻呂を補佐する征東副使に任じられ、翌延暦12年(793年)に軍を進発させた。
    この大伴弟麻呂は日本史上初の征夷大将軍とされる。
  • 田村麻呂は四人の副使の中でも中心的な活躍をし、延暦15年(796年)には合せて陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍を兼任し、蝦夷戦争の指揮を一手に引き受ける。
  • 翌延暦16年(797年)には、桓武天皇により大伴弟麻呂に代わって征夷大将軍に任じられる。延暦21年(802年)には胆沢城を築き阿弖流為らを降伏させ、延暦22年(803年)には志波城を築いた。
    この阿弖流為と同一視されるのが悪路王である。
  • 延暦23年(804年)に田村麻呂は再び征夷大将軍に任命され3度目の遠征を期したが、藤原緒嗣が「軍事と造作が民の負担になっている」と論じ、桓武天皇がこの意見を認めたため、征夷は中止になった。しかし田村麻呂は、本来臨時職である征夷大将軍の称号をこの後も帯び続けた。

その他の活躍  

  • 戦功によって昇進し、延暦24年(805年)には田村麻呂は参議に列し、翌年の大同元年(806年)に中納言、大同2年(807年)に右近衛大将、弘仁元年(810年)には大納言になっている。
  • 大同4年(809年)に第51代平城天皇(父は桓武天皇)が弟の第52代嵯峨天皇へ譲位した後に2人が対立した際、田村麻呂は平城上皇によって平城遷都のための造宮使に任じらるが、その後の薬子の変では嵯峨天皇側について平城上皇の脱出を阻止する働きを見せている。
  • 弘仁2年(811年)、坂上田村麻呂54歳で病死。
  • 嵯峨天皇は田村麻呂の死を悼み、「事を視ざること一日」と喪に服し、一日政務をとらず田村麻呂の業績をたたえる漢詩を作ったという。
  • 同日、葬儀が営まれ山城国宇治郡来栖村に葬られた。その際に勅があり「甲冑・兵仗・剣・鉾・弓箭・糠・塩を調へ備へて、合葬せしめ、城の東に向けひつぎを立つ」ように死後も平安京を守護するように埋葬されたという。

刀剣  

坂上宝剣  

皇室伝来の御剣
金象嵌 上上上 不得他家是以為誓勤思/坂家宝剣守君是以為名

黒漆太刀  

太刀
無銘
附黒漆剣
刃長二尺五寸三分(76.6cm)
重要文化財指定
鞍馬寺所蔵

  • 京都の鞍馬寺に坂上田村麻呂の剣と伝承される黒漆太刀があり、明治44年に旧国宝に指定されている。刃長二尺五寸三分の直刀で、柄は布、鞘は革で包んだ上に黒漆をぬってある。

田村麻呂の剣  

大刀
騒速
重要文化財
播磨清水寺所蔵(兵庫県加東市)

  • 集古十種では、播州賀茂郡鴨川(現 兵庫県加東市平木)の御嶽山清水寺(播州清水寺、西国三十三観音第25番札所)にあるという田村麻呂の剣の図を載せている。播州清水寺には、二尺三寸六分強の剣、一尺七寸六分強の刀など三振りが伝来した。


関連項目