土方歳三

土方歳三(ひじかたとしぞう)  

新選組副長
諱 義豊
雅号 豊玉

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生涯  

  • 天保6年(1835年)5月5日、武蔵国多摩郡石田村(現東京都日野市石田)に、農家の土方隼人(義諄)と恵津の間に生まれる。10人兄弟の末っ子。
    • 父は歳三の生まれる3ヶ月前の2月5日に結核で亡くなっており、母も歳三が6歳のときの天保11年(1840年)に結核で亡くなっている。
    • また長兄の為次郎は失明していたため、次兄の喜六と妻なかによって養育された。

奉公  

  • 江戸上野の「松坂屋いとう呉服店」に奉公に上がったという話が有名で、石田村人別帳控により数えで14歳〜24歳の10年間であると考えられている。
  • その後、歳三は実家秘伝の「石田散薬」を行商しつつ、各地の剣術道場で他流試合を重ね、修行を積んだ。
    • 17歳の時に松坂屋上野店の支店である江戸伝馬町の木綿問屋(上野店の鶴店に対し、亀店(かめだな)と称された)に奉公に上がり、そこで働いていた年上の女性を妊娠させてしまうといった問題を起こしたという逸話も残るが信ぴょう性は定かではない。

近藤勇との出会い  

  • 姉のぶは、姉弟の従兄弟でもある日野宿名主の佐藤彦五郎に嫁いでおり、歳三も彦五郎宅にはよく出入りしていたといわれる。彦五郎は、過去に大火に乗じて命を狙われたことがあり、それを契機に井上源三郎の兄井上松五郎の勧めで天然理心流に入門、それが高じて自宅の一角に道場を開いていた。そんな縁から彦五郎は試衛館の近藤勇と義兄弟の契りを結んでおり、天然理心流を支援した。
  • 歳三はその道場に指導に来ていた近藤と出会い、安政6年(1859年)3月29日、天然理心流に正式入門している。文久元年(1861年)に近藤が天然理心流宗家4代目を継承する。その記念に紅白の野試合が催されているが、その時歳三は紅組の大将を守る役で出場している。

京都へ  

  • 文久3年(1863年)2月、近藤ら試衛館の仲間とともに、将軍徳川家茂警護の為と称して募集された「浪士組」に応募し、京都へ赴く。※新選組・新徴組の前身組織。
  • この時、近藤らは三番隊にわけられている。
    1. 三番隊1 - 芹沢鴨・近藤勇・山南敬助・土方歳三・永倉新八・沖田総司・原田左之助・藤堂平助・平山五郎・野口健司・平間重助ほか ※のち六番隊
    2. 三番隊2 - 新見錦・阿比類鋭三郎・井上源三郎・沖田林太郎ほか

井上源三郎は新選組の六番隊組長。鳥羽・伏見の戦いで銃弾を腹部に受けて戦死。沖田林太郎は沖田総司の姉みつの婿で沖田家を継いでいる。壬生に残留せず江戸に戻った。
 なお浪士組全体では七番隊までの計234名と膨れ上がった。またこの編制発表後、何らかの理由で近藤勇は先回りして浪士達の宿割りをする役目(道中先番宿割)に、芹沢鴨は上洛途中で浪士取締役付きに、また芹沢が伍長となっていた三番隊は六番隊になっている。

  • しかし壬生に着いた翌日から清河八郎は同志とともに図り、浪士組全員の署名が記された建白書を朝廷(学習院)へ提出する。3月3日、浪士組に帰還命令が出されるが2度延期され、3月13日に清河八郎らが率いる浪士組は京都を出立して江戸へ向かった。
  • なお清河に反対した芹沢・近藤らは京都守護職を務めていた会津藩預かりとなってそのまま京都に残り、「壬生浪士組」を名乗る(後の新選組)。
    京都守護職会津藩預かりとなっていた「壬生浪士組」は、八月十八日の政変後に「新選組」の名を賜っている。

    江戸へ帰還した清川であったが、4月13日に幕臣の佐々木只三郎・窪田泉太郎ほか4名によって麻布一ノ橋で斬殺され、清河の同志達も次々と捕縛される。これにより浪士組は組織目的を失い、幕府では浪士組を新たに「新徴組」と名付け、江戸市中取締役の庄内藩預かりとした。

新選組副長  

  • 文久3年(1863年)に起きた八月十八日の政変後、芹沢・近藤らによる「壬生浪士組」の活躍が認められ、「新選組」が発足する。
  • その後近藤らは、文久3年(1863年)9月に新見錦を切腹に追い込み、芹沢鴨や平山五郎などを自らの手で暗殺する。これにより権力を握った近藤が新選組局長に就任し、歳三は副長となる。

池田屋事件  

  • 翌元治元年(1864年)6月5日、歳三は半隊を率いて長州藩士・土佐藩士らが頻繁に出入りしていた丹虎(四国屋)方面を探索して廻ったが、こちらは誰もいなかった。
  • すぐに近藤・沖田らが担当していた池田屋に向かうが、直ちに突入せずに池田屋の周りを固め、後から駆けつけた会津藩・桑名藩の兵を池田屋に侵入するのを阻み新選組の手柄を守る行動をとっている。この結果、池田屋事件の恩賞は破格のものとなり、天下に新選組の勇名が轟いた。

粛清  

  • この後、新選組内部では近藤一派による粛清が行われる。試衛館仲間であった副長の山南敬助を総長に据え、居場所がなくなった山南は元治2年(1865年)2月に脱走し、後を追った沖田総司に大津で追いつかれ捕縛。新選組に連れ戻され切腹となっている。介錯は沖田総司。
  • その後も河合耆三郎、谷三十郎、武田観柳斎らを切腹あるいは斬殺させている。
  • 慶応3年(1867年)3月には伊東甲子太郎が「御陵衛士」を作り新選組を離脱。伊東三木三郎、篠原泰之進、藤堂平助、服部武雄ら15名が分離する。しかしこれも11月に近藤の七条の妾宅に伊東を招いて酒宴を張り、帰路に新選組隊士の大石鍬次郎らが待ち伏せて槍を以って伊東を暗殺した。その後伊東の死骸を油小路七条の辻に伊東の遺骸を放置して同志をおびき出し、藤堂平助・篠原泰之進・鈴木三樹三郎・服部武雄らを惨殺している(油小路事件)。

戊辰戦争  

  • 慶応3年(1867年)6月幕臣に取り立てられるが、同年10月には徳川慶喜が将軍を辞し大政奉還、さらに12月9日に王政復古の大号令が発せられるに至り、幕府は事実上崩壊した。
  • 慶応4年(1868年)1月3日、鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争が勃発し、歳三は墨染事件で負傷した近藤の代わりに新選組を率いて戦うが、新政府軍の銃撃の前に敗北、江戸へ帰還する。
  • この後、近藤は「大久保大和」、歳三は「内藤隼人」と変名を名乗って甲斐国に向かう。しかし甲州勝沼の戦いで敗戦し、流山で再起を図っていたが、4月3日新政府軍に包囲された近藤が投降する。近藤は25日に板橋刑場にて斬首された。
    沖田総司はこの前から体調が悪化(肺結核)しており、途中で落伍し千駄ヶ谷の植木屋に匿われ近藤の斬首から2ヶ月後に死んでいる。
  • 4月11日に江戸開城が成立すると江戸を脱出し、下館・下妻を経て宇都宮城の戦いに勝利、宇都宮城を陥落させる。この際に足を負傷し、歳三は本軍に先立って会津へ護送されることとなった。会津では約3ヶ月間の療養生活を送っている。
  • 戦線復帰後、母成峠の戦いの敗戦に伴い会津戦争が激化し、歳三は援軍を求めて庄内藩、次いで仙台へ向かう。この頃、会津城下に残った山口二郎(斎藤一)達と、仙台へ天寧寺から離脱した隊士達とに新選組は分裂する。
  • 歳三は仙台で榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流、新選組生き残り隊士に桑名藩士らを加えて太江丸に乗船し、榎本らと共に10月12日仙台折浜を出航し、蝦夷地に渡った。

箱館戦争  

  • 10月20日蝦夷地鷲ノ木に上陸、箱館・五稜郭を占領後、歳三は額兵隊などを率いて松前へ進軍し松前城(福山城)を陥落させている。
  • その後幹部を決定する選挙が行われ、榎本を総裁とする「蝦夷共和国」が成立、歳三は幹部として陸軍奉行並となり、箱館市中取締や陸海軍裁判局頭取も兼ねた。
  • 明治2年(1869年)3月には新政府軍の甲鉄艦奪取を目的とした宮古湾海戦に参加するが作戦は失敗している。
  • 4月9日、新政府軍が蝦夷地乙部に上陸を開始。歳三は、二股口の戦いで新政府軍の進撃に対し徹底防戦する。

最期  

  • 5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始され、島田魁らが守備していた弁天台場が新政府軍に包囲され孤立したため、歳三は籠城戦を嫌って僅かな兵を率いて出陣する。
  • 歳三は一本木関門を守備し、七重浜より攻め来る新政府軍に応戦。鬼のように戦い、馬上で指揮を執った。その乱戦の中、銃弾に腹部を貫かれて落馬、側近が急いで駆けつけた時にはもう絶命していたという。
  • 享年35。
  • 辞世の句は「よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東(あずま)の君やまもらむ」




逸話  

鬼の副長  

  • 新選組陣中法度、局中法度等の非常に厳格な隊規を考案したのは歳三であるとされる。

    一、士道ニ背キ間敷事
    一、局ヲ脱スルヲ不許
    一、勝手ニ金策致不可
    一、勝手ニ訴訟取扱不可
    一、私ノ闘争ヲ不許
    右条々相背候者切腹申付ベク候也(局中法度)

    この5か条は子母沢寛の「新選組始末記」で紹介され広まったものだが、同時代史料にはこれを全て記録した物は現在までのところ発見されていない。永倉新八が大正2年(1913年)に語った内容を載せた小樽新聞の記事には最後の「私ノ闘争ヲ不許」を除く4ヶ条しか提示されていない。さらに「局中法度」ではなく、「禁令」「法令」としか言及されていない。

  • 新選組内部では、常に上記法度(規律)を隊士らに遵守させ、規律を破った隊士に対してはたとえ幹部の人間であろうと切腹を命じており、隊士から恐れられていたとされる。そのため、新選組隊士の死亡原因第1位は切腹であったといわれている。また、脱走者は切腹または斬殺後見せしめにすることもあった。
  • このため「鬼の副長」と呼ばれ、新選組内においては冷酷な人物と怖れられたという。

剣術  

  • 天然理心流道場では中極意目録までの記録しか現存していないものの、喧嘩にめっぽう強く、実戦では最前線に立ち縦横無尽に戦っている。
  • 斬り合いの時に足下の砂を相手にぶつけて相手がひるんだ隙に斬り伏せたり、または首を絞めて絞殺するなど、剣術の型に因われない行動を取ったとされる。
    実際のところ、幕末の京都での戦闘は天井が低く上段に振りかぶることが困難な室内や、京都特有の狭い路地で行われることが多かった。このため道場での竹刀剣術の腕とは別の実践力が大きく物を言った。

洒落者  

  • もともと色白で引き締まった顔立ちをしており、また当時としては長身であったため、非常に女性にもてたという。京都から日野の仲間に向け、多数の女性からの恋文をまとめて送って自慢している。
    上洛して間もないころ、武州小野路村の名主で新選組の支援者でもあった小島鹿之助(歳三の縁戚にあたる)に大きな荷物が届いた。京土産でも送って来たかと開けてみると、中には彼を慕う芸者・舞妓からの恋文がびっしり詰められており、さらに「報国の心ころわするゝ婦人哉」という歳三(豊玉)作の和歌が添えられていたという。
  • 真紅の面紐に朱塗りの皮胴など洒落た防具を使用した。
  • 洋装で撮影させた写真も高名である。また舶来の懐中時計等も持っていたという。

豊玉先生  

  • 和歌や俳諧等を嗜む等風流人の一面も持っていた。書き溜めた句は自らまとめており、「豊玉発句集」として残されている。

石田散薬  

  • 歳三の生家が製造、販売していた薬で、骨折や打ち身、捻挫、筋肉痛、また切り傷等に効用があるとされていた。河童明神から製造方法を教わったという伝説がある。
  • 宝永年間(1704年~1711年)より、1948年(昭和23年)の薬事法改正まで約250年間製造・販売されていた家伝薬で、土方家に残る資料によれば江戸御府内以外の得意先だけで400軒以上あり、関東近県の取次所と呼ばれる雑貨商や薬種商に卸して販売していたようである。
  • 土用の丑の日に限定して薬草(牛革草ぎゅうかくそう、ミゾソバのこと)を刈り取り、天日で乾燥させたあと黒焼きにして鉄鍋に入れる。日本酒を散布して再び乾燥、最後に薬研にかけて粉末にすれば完成するという。薬効は不明だが、薬事法改正に伴う製造販売許可申請において、厚生省(当時)は「成分本質効能に関する客観性のある科学的調査研究がなされていない」として黒焼きの民間薬全ての薬効を認めないという方針を示したため、製造が中止された。




差料  

  • 文久3年(1863年)10月20日付で、近藤が佐藤彦五郎に贈った手紙に当時の歳三の差料が書かれている。

    土方氏も無事罷在候。殊に刀は和泉守兼定二尺八寸、脇差は一尺九寸五分堀川國廣。

大刀
二尺八寸の和泉守兼定
文久3年(1863年)10月といえば、会津12代の友弥兼元は上洛して三品近江守のもとで修業中(受領名を受けるための名目的なもの)であり、和泉守を受領して兼定と改名するのは12月4日、家督(12代兼定)を継いだのが慶応4年(1868年)である。そのため、この時帯びていたのは会津11代となる。会津兼定の代数については「会津兼定」の項参照。
小刀
一尺九寸五分の堀川国広
この国広は、太平洋戦争後に占領軍(GHQ)の非軍事化政策のあおりを受けて没収され、その代わりに兼定が没収を免れた。


その他の刀剣  

土方記念館所蔵
日野の土方歳三資料館所蔵。二尺三寸一分六厘。銘「和泉守兼定/慶應三年二月日」これは上記近藤の手紙にあるものとは別の兼定で、会津12代とされる。
「土方義豊戦刀」
差表に「大和守源秀国 秋月種明懇望帯之」、裏に「慶応二年八月日 幕府侍土土方義豊戦刀 秋月君譲請 高橋忠守帯之」と在銘の二尺二寸八分(68.7cm)の刀が現存する。秀国は会津藩お抱えの刀工。この刀は、歳三が受領のために上洛していた秀国に打たせたもので、のち、大鳥圭介の伝習隊に加わっていた会津藩士秋月登之助(江上太郎種明)に譲ったもの。さらにのち高橋忠守が秋月から譲られた。東京の個人が所蔵していたが、2016年4月霊山歴史館(京都市東山区)が購入し所蔵。
越前康継
佐藤彦五郎資料館所蔵の葵御紋の越前康継。甲州勝沼戦後に歳三から佐藤源之助(佐藤彦五郎の長男)へ贈られた。
用恵(ようけい)国包
初代仙台国包。長二尺一寸。逸話参照。

逸話  

  • 甲源一刀流の比留間与七利恭の漢文に書かれる「比留間を始め歳三や勇、清河八郎らが集まって試し切りした際の記録で、少年の頃の差料が大が二尺一寸の用恵国包、小が一尺五寸の相州綱広。」というのは事実関係に誤りがあるとされている。
    比留間は天保11年(1840年)に死んでおり、最晩年に書かれたものだとしても天保6年5月生まれの土方歳三は当時まだ6歳である。