同朋衆

同朋衆(どうぼうしゅう)  

  • 室町時代以降将軍の近くで雑務や芸能にあたった人々のこと。
  • 阿弥衆、御坊主衆とも。
  • 語源は、仏教者の「同業同朋」から来たものと見られるが、将軍近侍の「童坊」から来たという説もある。
  • 一遍上人の起した時衆教団に芸能に優れた者が集まったものが起源とされる。時衆における遊行は、室町幕府から関所自由通過を許され、さらに時衆に加わる手続きも簡単だったため芸能を生活の手段とする人々が時衆集団に加わるようになる。
  • 時宗を母体としているために阿弥号(阿号)を名乗る通例があるが、観阿弥、世阿弥など時宗の僧ではないものも阿弥号を名乗る。

制度としての同朋衆  

  • 制度としての起源は、細川頼之が執事となって奸佞の徒を退けるために6人の法師を抱え足利義満に「佞坊」として仕えさせたことに始まる。それが後に「童坊」「同朋」と呼ばれるようになったという。
  • 同朋は猿楽や庭園作りなどの芸能を司り、また唐物奉行として唐物、唐絵の目利き、表装、出納などを行ったという。
  • その後、同朋衆は織田信長豊臣秀吉にも仕えた。

主な同朋衆  

毎阿弥
(茶道)もと越前朝倉氏の家臣だったという。

夫茶湯ノ起ハ、普光院殿(義教)・鹿薗院(義満)ノ御代ヨリ
唐物絵讃等歴々集リ畢、其比御同朋衆ハ善阿弥・毎阿弥ナリ。

能阿弥
(唐物、茶道、水墨画、連歌、立花)毎阿弥の子。義政に仕え歌連歌、村田珠光を推薦し茶湯の師匠を務めた。この能阿弥に子の芸阿弥、孫の相阿弥をあわせて三代三阿弥(能・芸・相)と呼ぶ。
芸阿弥
(唐物、茶道、水墨画)
相阿弥
(唐物、茶道、水墨画、立花、作庭)竜安寺や大仙院の石庭を造ったと伝わる。
南阿弥
(謡作曲者)海老名(えびな)の南阿弥陀仏。観阿弥を義満にひきあわせた。
観阿弥
(猿楽能)
世阿弥
(猿楽能)
音阿弥
(猿楽能)世阿弥の甥。観阿弥世阿弥と並べると「観・世・音」となり前ニ者は義満、音阿弥は義政の命名という。
善阿弥
(作庭、連歌)
重阿弥
(碁)
拾阿弥
 
千阿弥
千利休の祖父(『千利休由緒書』)

会所(かいしょ)  

  • 会所とはなんらかの会、催し物、寄合・会合が行われるところであり、中世期に発展して、ある特定の区画、さらには独立した建物が「会所」と名づけられるようになった。
  • 南北朝期には婆沙羅大名として高名な佐々木道誉も会所を持っていたことがわかる。

    爰ニ佐渡判官入道々誉都ヲ落ケル時、我宿所ヘハ定テサモトアル大将ヲ入替ンズラントテ、尋常ニ取シタヽメテ、六間ノ会所ニハ大文ノ畳ヲ敷双ベ、本尊・脇絵・花瓶・香炉・鑵子・盆ニ至マデ、一様ニ皆置調ヘテ、書院ニハ羲之ガ草書ノ偈・韓愈ガ文集、眠蔵ニハ、沈ノ枕ニ鈍子ノ宿直物ヲ取副テ置ク、十二間ノ遠待ニハ、鳥・兎・雉・白鳥、三竿ニ懸双ベ、三石入許ナル大筒ニ酒ヲ湛ヘ、遁世者二人留置テ、誰ニテモ此宿所ヘ来ラン人ニ一献ヲ進メヨト、巨細ヲ申置ニケリ

  • 室町幕府(花の御所)に会所が設置されるようになり、義持、義教が次々と増設し、四字の会所を持っていたとされる。

    ひんかし山との御くわい所の御わたましの御れいに。しろ御たちてんそう御つかいにてまいる

  • 会所の発達は、寝殿造りから書院造りへの変遷を促すこととなり、さらに座敷飾りの場として床の間が出現し、「唐物」と呼ばれた絵画、墨跡、文房具、法具などが唐物数寄として発達していく。
  • 歴代将軍により蒐集された道具は「東山御物」(ひがしやまごもつ)と称されるようになる。これらの目利き、表装、出納などにあたったのが同朋衆であり、初期には三代三阿弥(能・芸・相)が「唐物奉行」と呼ばれ、「会所同朋」などとも呼ばれた。
  • こうした同朋衆の室礼の集大成が「君台観左右帳記」となる。著者の能阿弥は、刀剣鑑定書「能阿弥本銘尽」も著している。

本阿弥  

  • 後の刀剣鑑定所、「本阿弥家」の祖。
  • 初代も「妙本阿弥陀仏」を略して「本阿弥」と称したという。

本阿弥

十阿弥(とあみ)  

  • 織田信長に仕えた同朋衆とされ、ある時又左衛門と名乗っていた頃の前田利家の刀の笄を盗んだという。怒った利家は信長に十阿弥の処罰を願うが却下され、その場で十阿弥を斬り捨てる。
  • 信長は利家を斬ろうとするが柴田勝家らに止められ、放逐をするに留まる。
  • 利家はその後「桶狭間の戦い」で単身今川方に切り込み首級を挙げるが赦されず、さらに後、美濃森部村(安八町)での「森部の戦い」(稲葉山城の戦いの前哨戦)で斎藤氏重臣日比野下野守の家臣足立六兵衛(猛将で「首取り足立」の異名を持つ)を討ち取る。
  • 信長は「足立の首は、城一つ攻め滅ぼしたも同然」と激賞し、利家はようやく帰参を認められ赤母衣衆として活躍していく。