古田織部

古田織部(ふるたおりべ)  

戦国時代の武将・茶人
古田重然
従五位下織部正
利休七哲のひとり

生涯  

  • 古田織部は、美濃国本巣郡の山口城主古田重安の弟である古田重定の子として生まれ、伯父重安の養子となったという。
  • 父の重定も「茶道の達人也」という。
    古田氏─┬重安
        └重定─┬重然(織部)─┬重嗣(重広)
            ├重則     ├重尚(前田利常家臣)
            └重続     ├重広(池田光政家臣)
                    ├重行(豊臣秀頼家臣)
                    └重久
  • 古田氏は美濃の守護大名土岐家に仕えていた。永禄9年(1567年)に織田信長が美濃に侵攻すると、古田織部は家臣として仕えている。上洛軍に従軍し、永禄11年(1569年)に摂津茨木城主中川清秀の妹せんと結婚する。
  • 本能寺の変ののちは秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いでも軍功をあげている。
  • 天正13年(1585年)に秀吉が関白になると、重然は年来の功績を賞され従五位下織部助(織部正)に任ぜられた。

茶人  

  • 天正10年(1582年)から千利休の書簡に重然(織部)の名前が見え始め、これまでに利休と知り合い、弟子入りしたとされる。「利休七哲」のひとり。

関ヶ原・大坂の役  

  • 慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いでは東軍に与しており、この頃に2代将軍秀忠の茶の湯の指南役にも抜擢されている。
  • 慶長20年(1615年)の大坂夏の陣のおり、古田織部の茶頭である木村宗喜が豊臣氏に内通して京への放火を企んだとされる疑いで京都所司代の板倉勝重に捕らえられてしまう。
    木村宗喜は、享保名物宗喜貞宗」に名を残す。
  • 織部本人も、冬の陣の頃から豊臣氏と内通しており徳川方の軍議の秘密を大坂城内へ矢文で知らせたなどの嫌疑をかけられ、大坂落城後の6月11日に切腹を命じられた。織部はこれに対し、一言も釈明せずに自害したといわれる。

    幕府、古田重然及びその子重嗣に切腹を命ず、是日、幕府、重嗣の室仙石忠政妹、及び仙石宗也久倫、の女の処置を仙石忠政に令す
    古田織部家財被没収云々

  • 来国光」を所持していたという長子の古田重広も時を同じくして切腹している。重広は仙石秀久の娘と結婚しており娘もいたが、妻子は仙石家にお預けになった。

逸話  

利休七哲  

  • 天正19年(1591年)、秀吉によって千利休の追放が決まると、利休と親交のあった諸将が秀吉を憚って現れない中、織部と細川忠興のみが堂々と利休の見送りを行っている。

へうげもの  

  • 古田織部の名は、近年、山田芳裕の漫画「へうげもの」で広く知られるようになった。「へうげもの(ひょうげもの)」とは、「ひょうげたもの」から来ており、(ひょう)げるまたは(おど)けるなどの意味がある。
  • 慶長4年(1599年)、古田織部の茶会に招かれた博多商人で茶人の神谷宗湛は、初めて目にした「織部好み」と呼ばれる歪んだ茶碗について、次のように日記に残した。これが「へうげもの」の初出とされる。

    セト茶碗、ヒヅミ候也、ヘウゲモノ也

ハゲ頭  

  • 大坂の役の際に徳川方として従軍していた織部は、月夜の明るい日に茶杓の材料を求めて竹藪に入った。織部は出家していたので頭髪のないハゲ頭であったが、その頭のせいで何やら光るものを大坂方が発見して怪しみ鉄砲を撃った。弾は危うく頭上をかすめたので織部は慌てて陣中に戻ったという

「破調の美」  

  • 織部が用いた「破調の美」の表現法に、器をわざと壊して継ぎ合わせそこに生じる美を楽しむという方法がある。その実例として、大きさを縮めるために茶碗を十字に断ち切って漆で再接着した「大井戸茶碗 銘須弥 別銘十文字」や、墨跡を2つに断ち切った「流れ圜悟」があげられる。

弟子  

  • 茶の湯の弟子とされる人物には小堀遠州、上田宗箇、徳川秀忠、金森可重、本阿弥光悦毛利秀元らがいる。

関連項目