古今伝授

古今伝授(こきんでんじゅ)  

古今伝授とは古今和歌集に関する故実や解釈の秘伝を伝えること
二条流歌人であった東常緑が宗祇に伝授したのが始まりとされる


古今伝授の太刀  

  • 戦国時代末、三条西実隆は当代随一の歌人と評されその子公条・実枝も優れたため家職として歌道を伝えた。
  • しかし世継となるべき公国が幼かったため、弟子である細川藤孝に「返し伝授」を誓わせた上で伝えた。
    たとえ細川家の嫡男の一人といえども、絶対に他人には伝授しないこと、三条西家に、もし相伝が断絶するようなことがあれば、責任をもって伝え返すことを条件としたという。
  • 慶長5年(1600年)、細川幽斎は丹後田辺城を石田方の軍勢に囲まれるが、歌道の弟子である八条宮智仁親王により後陽成天皇への上奏が行われ、三条西実条、中院通勝、烏丸光広が勅使として田辺城に下され講和が行われた。
  • そして彼らに対して古今伝授が行われ、その時烏丸光広に贈られたのが現国宝古今伝授の太刀」である。
  • 幽斎は公国成人後に歌道を継承しようとするも公国が夭折したため、幽斎は改めて公国の子である実条(実隆孫)に歌学伝授を行ったとされる。


伝来  

二条家  

  • 古今和歌集の読み方や解釈を秘伝とする風習は、平安時代末期頃から現れつつあった。鎌倉時代以降公家の家筋が固まり家の家職が分別化されると、古今和歌集の解釈は歌学を家職とする二条家(五摂家の二条家とは別。御子左家俊成流)の秘事として代々相承されるようになった。
    ┬兼家─道長┬頼通─師実─師通(北家嫡流、五摂家)
    │     │
    │     │                   (二条家・歌学二条派)
    │     └長家─忠家─俊忠─俊成─定家─為家─┬二条為氏─為世─為道─為定─為遠─為衡
    │                        │
    │                        │(京極家)
    │                        ├京極為教─為兼
    │                        │
    │                        │(冷泉家・歌学冷泉派)
    │                        └冷泉為相
    │
    │
    │           (転法輪三条家)   (正親町三条家)
    └公季─実成─公成─実季─公実─実行…公氏…実継─┬公豊
                             │
                             │(三条西家)
                             └公時─実清─公保─実隆─公条─実枝─公国─実条
                                          
  • 藤原北家御堂流である御子左家は、藤原俊成・定家・為家を出し和歌の家としての地位を確立した。為家の子二条為氏は大覚寺統に近侍して歌壇を馳せていた。為氏の庶弟為教・為相と相続をめぐって不和となり、為教は京極家、為相は冷泉家に分家した。
  • 二条為氏の子為世、京極為教の子為兼の代になると、二条家嫡流の二条派は大覚寺統(のちの南朝)と結んで保守的な家風を墨守し、一方の京極派は持明院統(のちの北朝)と結んで破格・清新な歌風を唱えた。二条派と京極派は互いに激しく対立して勅撰和歌集の撰者の地位を争った。
  • 二条派は「玉葉和歌集」「風雅和歌集」「新続古今和歌集」以外の勅撰和歌集を独占したが、二条派実権は為世に師事していた僧頓阿に移っており、さらに二条家の嫡流は為世の玄孫の為衡の死によって断絶してしまう。
  • 二条為衡の死によって二条家が断絶すると、二条家の教えを受けた者達(二条派)によってこれらの解釈が受け継がれるようになった。

頓阿・東常縁  

  • 頓阿は二条為世に師事して活躍、二条派(歌道)再興の祖とされ、20歳代で慶運・浄弁・吉田兼好とともに和歌四天王の一人とされた。
  • 二条家の秘伝は二条為世の弟子であった頓阿によって受け継がれ、その後は子孫の経賢、尭尋、尭孝と続いた。尭孝の弟子に東常縁・尭恵・三条西公保がいる。
    二条為氏──二条為世──頓阿──経賢──尭尋──尭孝─┬─東常縁
                               │
                               ├─尭恵
                               │
                               └─三条西公保──実隆
  • 尭孝は東常縁に秘伝をことごとく教授し、常縁は室町時代中期における和歌の権威となった。東常縁は足利義尚や近衛政家、三条公敦などに古今集の伝授を行っている。
  • 古今和歌集は上流階級の教養である和歌の中心を成していたが、時を経るに従い、注釈無しでその内容を正確に理解することは困難であった。このため、古今集解釈の伝授を受けるということには大きな権威が伴った。文明三年(1471年)、常縁は美濃国妙見宮(現在の明建神社)において連歌師宗祇に古今集の伝授を行った。

分派  

  • 宗祇は三条西実隆と肖柏に伝授を行い、肖柏が林宗二に伝えたことによって、古今伝授の系統は三つに分かれることになった。三条西家に伝えられたものは後に「御所伝授」、肖柏が堺の町人に伝えた系譜は「堺伝授」、林宗二の系統は「奈良伝授」と呼ばれている。
            ┌─三条西実隆──公条──実枝─┬─(公国)─┬─三条西実条
            │               │      │
            │               │      │【御所伝授】
    東常緑──宗祇─┤               └─細川幽斎─┼─八条宮智仁親王──後水尾上皇
            │      【堺伝授】           │
            └─肖柏──┬…               ├─中院通勝
                  │                │
                  │【奈良伝授】          ├─島津義久
                  └─林宗二(饅頭屋宗二)     │
                                   └─松永貞徳

御所伝授  

  • 三条西実隆は当代随一の歌人と評された。実隆・公条・実枝の三代はいずれも歌道に優れており、三条西家では家職として歌道を継承した(古今伝授)。
  • 三条西実枝はその子がまだ幼かったため、後に子孫に伝授を行うという約束で弟子であった細川幽斎(幽斎玄旨)に伝授を行った。この時、「たとえ細川家の嫡男の一人といえども、絶対に他人には伝授しないこと、三条西家に、もし相伝が断絶するようなことがあれば、責任をもって伝え返すこと」等を誓わせたという。
  • ところが慶長5年(1600年)、幽斎の居城田辺城は石田三成方の小野木重次らに包囲された(田辺城の戦い)。幽斎が古今伝授を行わないうちに死亡し古今伝授が絶えることをおそれた朝廷は、三条西実条、中院通勝、烏丸光広の3名を勅使として派遣し、幽斎の身柄を保護して開城させた。この時烏丸光広に贈られたのが、現国宝古今伝授の太刀」である。
  • 幽斎は八条宮智仁親王、実枝の孫の三条西実条などに伝授を行う。後水尾上皇は1625年(寛永2年)に八条宮から伝受をうけ、以降この系統は「御所伝授」と呼ばれる。

堺伝授  

  • 堺伝授は堺の町人の家に代々受け継がれていったが、歌人でない当主も多く、ただ切紙の入った箱を厳重に封印して受け継ぐ「箱伝授」であった。一方で世間には伝来のない古今伝授の内容が流布され、民間歌人の間で珍重されるようになった。しかし和歌にかわって俳諧が広まり、国学の発展によって古今和歌集解釈が新たに行われるようになると、伝授は次第に影響力を失っていった。




概要  

  • 古今伝授の実態は、次のようなものであるとされる。

    三木(さんもく)は、おがたまの木、めどに削り花、かはなぐさ
    三鳥(さんちょう)は、よぶこどり、ももちどり、いなおほせどり
    三木は三鳥より重し

    おがたまの木はオガタマノキ、めどに削り花のめどはメドハギ、かはなぐさはカワモズク。よぶこどりは筒鳥・郭公、ももちどりは沢山の千鳥、いなおほせどりはセキレイなどと解釈される。※諸説あり

  • しかしこれだけでは何のことか意味がわからない。ものの名前だけであれば余白にでも書けばよく人命を左右するほどの秘密にはならないということで、古来様々な推測が行われている。
  • 有名なものでは、頓阿と兼好法師のやりとりが知られている。

    よもすずし ねざめのかりほ たまくらも まそでの秋に へだて無きかぜ(兼好)

    よるもうし ねたくわがせこ はては来ず なほざりにだに しばしとひませ(頓阿)

  • これだけでは何の事はないやり取りにすぎないが、これは次のように読み解く。

    もすす
    さめのかり
    まくら
    そての秋
    たて無きか

    • つまり「米給え、銭も欲し」と読み取れる。
  • 頓阿の返歌もこれに答えている。

    るもう
    たくわかせ
    ては来
    ほさりにた
    はしとひま

    • つまり「米はなし、銭少し」というわけである。当時の知識人の言葉遊びではあるが、これらは折句(おりく)と呼び古くより行われてきた。
  • 有名ないろは歌も、ある並べ方をして沓を採ると意味の通る言葉になる。

    いろはにほへ
    ちりぬるをわ
    よたれそつね
    らむうゐのお
    やまけふこえ
    あさきゆめみ
    ゑひもせ

  • つまり「(とが)(罪)なくて死す」というわけである。さらに

    いろはにへと
    ちりぬるわか
    よたれそねな
    らむうゐおく
    やまけふえて
    あさきゆみし
    ゑひもせす

  • ()を津の(こめ)(小女)へ」
  • これだけなら単なる偶然の一致ともいえる。しかし江戸時代に起こった赤穂浪士事件を題材とした歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の外題が、その意味が当時すでに広く知られていた、または容易に理解することができたことを示している。
  • もちろん「仮名手本」とはいろは歌のことである。つまり、赤穂浪士の数が47人であり、彼らは咎なくて死んだということを暗に示して当時の幕府の対応を批判していると指摘されている。
  • この「仮名手本忠臣蔵」は歌舞伎での人気演目の一つで、これとともに挙げられるほどの人気演目に「菅原伝授手習鑑」という、菅公菅原道真の悲哀を描いたものがある。この「手習鑑」もいろは歌のことなので、無実の罪である意味で使っていることは明白とされる。
    道真が実際に無実であり、そのタタリが当時の宮廷社会において脅威と感じられたことは数々の記録に残る。
    大宰府に流された2年後、道真が延喜3年(903年)2月25日に薨去後、政敵であった藤原時平が39歳で病死、さらに醍醐天皇の皇子で時平の甥であった保明親王が病死(享年21)、その息子で皇太孫となった慶頼王(時平の外孫、享年6)も病死する。この事態に、朝廷では従二位大宰権帥から右大臣に復し正二位を贈った。
    しかしそれでも怒りは収まらず(と当時の人々は考えた)、20年後の延長8年(930年)には、朝議中の清涼殿が落雷を受け多くの死傷者が出る(清涼殿落雷事件)。さらにそれを目撃した醍醐天皇が体調を崩し、3ヶ月後に崩御するに至る(宝算46)。永延元年(987年)には一条天皇より「北野天満宮天神」の称が贈られ、正暦4年(993年)5月には贈正一位左大臣、同年10月には贈太政大臣を追贈する。まさになりふり構わぬ恐れぶりである。
  • こうしたことから、宮廷生活では不遇をかこった藤原定家が、古今伝授に何か深い意味を込めたのではないかということが長らくささやかれている。同様に定家が選出した「小倉百人一首」もある特定の並べ方をするとメッセージが隠されていると指摘する人がいる。