加賀八家

加賀八家(かがはっか)  

加賀藩において藩の重役である年寄衆を代々世襲した家系
人持組頭

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概要  

  • 4代藩主前田綱紀により整備された。

    當時寄合に參加する所の老臣八人ありて、本多政長・長連頼・横山忠次・小幡長次は大事を決し、前田孝貞・奧村庸禮・津田孟昭は交番して尋常の國政を視、今枝近義は多く江戸の事を執り、各政務を分掌すると同時に又互に合議知照を要すと定めたりき。

  • 加賀藩の直臣は、人持組頭、人持組、平士、足軽に大別される。
  • 人持組頭は別名を「加賀八家」、あるいは「前田八家」ともいい、いずれも1万石以上の禄高を持ち、藩の重臣として藩政に関わった。
  1. 加賀本多家
  2. 長氏
  3. 横山氏
  4. 前田対馬守家
  5. 奥村河内守家(奥村宗家)
  6. 村井家
  7. 奥村内膳家(奥村分家)
  8. 前田土佐守家

貞享以後の制によれば、八家の年寄中七人は、人持の士を七隊に分かちて、各一際の人持組頭に任ぜらる。是を以て、世に八家を稱して七手といふ事あり。然りといへども八家は年寄の職に任ぜらるゝものゝ家數にして、七手とは人持の組數なるが故に、全くその意義を異にす。但し人持を七組とするは元祿十四年の改定に係り、それより前は六組とせり。
その他、年寄中の二人は、公儀御用の事務を掌りて、幕府の指揮命令を受け、金澤城代二人ありて、城郭の警備及び修造に任じ、小松城代ありて小松城を管し、勝手方御用主附ありて財政の大綱を握り、學校方御用主附三人ありて文武の教育を掌り、藩末に至りては沿海の守備に任ずる海防方も、亦年寄中より選任せられたり。而しで上記の中、小松城代は明和八年以後闕職となる。

  • その下の人持組は、時に家老などの重職に就くこともあり、高禄の者は1万石以上少ない方では1000石程度の禄高で約70家が存在した。
  • 加賀八家のうち6家の墓所は野田山墓所にある。野田山墓所は、加賀藩藩祖前田利家の実兄利久がこの地に葬られたのが始まりとされ、以降歴代藩主とその正室のほとんどが葬られた。
  • 八家墓所は前田家墓所をとり囲むように配置され、北東側には長家、北側には前田土佐守家、奥村宗家、横山家、西側には村井家、奥村支家が配置される。なお残りの本多家および前田長種は、金沢市内のそれぞれの菩提寺に墓所がある。

本多氏  

  • 筆頭家老。5万石
  • 本多正信の次男本多政重を家祖とする。

初代:本多政重  

2代:本多政長  

  • 父は加賀藩家老本多政重。母は西洞院時直の娘。
  • 正室は前田利常の娘・春姫。
  • 子は本多政敏、本多政孝、本多政則、本多政冬、本多政広、本多政寛、八幡新善法寺行清。
  • 本多政重の四男として生まれるが、兄たちが早世、あるいは他家の養子となったために嫡男となる。
  • 正保3年(1646年)前田利常の娘春姫と結婚。正保4年(1647年)父の隠居により家督相続する。慶安3年(1650年)正室自性院(春姫)死去。
  • 慶安5年(1652年)江戸城で将軍徳川家光に拝謁する。
  • 万治元年(1658年)江戸城修復の課役を務める。同年紀州藩主徳川頼宣に拝謁し、その才を認められ親しく交際した。
  • 貞享5年(1688年)大年寄(大老)となる。
  • 元禄4年(1691年)には、父政重、横山長知の慶長20年(1615年)叙爵以降途絶えていた、前田家陪臣の叙爵を幕府より許され、従五位下安房守に叙任される。
  • 元禄14年(1701年)隠居して家督を嫡男政敏に譲り、隠居料3000石を賜る。宝永5年(1708年)8月卒。享年78。

3代:本多政敏  

  • 父は加賀藩家老本多政長。
  • 正室は前田孝貞の娘。子は本多政質、本多政惇、本多政昌、西洞院時光室、栗津右近室、前田貞直室、三田村孝言室。
  • 元禄12年(1699年)新知3000石を賜る。元禄14年(1701年)父の隠居により家督と5万石の知行を相続する。同年人持組頭となる。
  • 元禄15年(1702年)4月従五位下安房守に任官。正徳元年(1711年)公儀御用(宗門方御触)兼任。
  • 父政長の希望で、長女を政長の母の実家の公家西洞院時光に、藩主前田綱紀と幕府の許可を取った上で嫁がせている。
  • 正徳5年(1715年)3月19日卒。享年63。家督は嫡男の政質が相続した。

長氏  

  • 穴水城主3万3000石
  • 長氏は滝口の武者長谷部信連を祖とし、畠山七人衆として知られた能登畠山氏旧臣。
  • 長連龍を家祖とする。
    • 名物丈木」はこの長氏の家に伝わったものだという。
    • また「長左文字」も長連龍所持にちなんで名付けられている。

2代:長連頼  

  • 長連龍の次男として誕生するが、兄が死んでいたため元和5年(1619年)父の死に伴い家督を相続する。
  • 長氏の所領である鹿島半郡は、父の連龍が前田氏の与力となる前に信長から受領した土地であり、加賀藩主もこれに手をつけることができなかった。
  • ところがこの長連頼の代に鹿島半郡の検地問題が発生し(浦野事件)、長連頼の子である長元連をも巻き込んでの騒動となってしまう。
  • これを重く見た連頼は、単独での処理はできないと判断し、寛文7年(1667年)2月15日、本多政長、横山忠次、前田対馬、奥村因幡、今枝民部ら藩の重臣を通じて、浦野派の罪状を書いた覚書を加賀藩に提出した。
  • 藩主前田綱紀は、鹿島半郡を直接統治する機会と考えてこれに介入し、浦野孫右衛門、兵庫父子ら一派を逮捕に到る。姑である幕閣保科正之にも相談の上、浦野父子ら一派の首謀者は切腹と処された。さらに長氏の家中取り締まり不行き届となり、罪は子の長元連にもおよび、剃髪のうえ蟄居となった。家督はその子の千松(のちの長尚連)が継ぐことになったが、前田綱紀は鹿島半郡を取り上げ、代わりに石高に見合う米を給することになった。これにより、長氏の特権が完全に潰えることとなった。

    長氏の前田氏に雌伏しつゝも、尚能登の豪族たりし疇昔の夢を趁ひ、藩中に藩を作り、有事の際に於ける根據地を設けたるに非ざるなきかを疑はしむ。此の如きは實に前田氏の深憂たらざる能はざりしなり。綱紀即ち長氏一家の内訌に乘じて之を收め、代ふるに領内散在の釆邑を以てし、以て一統の政を施したりしは、頗る機宜に適したる處置にして、多年爲さんと欲して爲し得ざりし所を敢行したりしなり。

3代長尚連  

  • 2代長連頼の嫡孫。父である長元連は浦野事件に巻き込まれて剃髪のうえ蟄居となり、家督は長尚連が継ぐことになった。家禄3万3000石の相続は認められたものの、鹿島半郡は藩に収公され、代わりに他の家臣同様に、加賀藩領内に散在する采地を与えられ居を金沢に移した。
  • 貞享2年(1685年)3月には前田利意の娘(前田綱紀養女)を娶っており、貞享3年(1686年)11月13日、人持組頭(七手頭)となっている。

横山氏  

  • 富山城代3万石・国家
  • 前田利長に仕え賎ケ岳の戦で戦死した横山長隆を祖とする。

2代:横山長知  

  • 横山長隆の子。正室は前田長種(前田対馬守家)の妹。
  • 子に康玄、長次(興知、旗本寄合5千石の横山家祖)、長治らがいる。
  • 関ヶ原の戦いでは前田利長の命を帯び、前田家中における反徳川派の中心人物であった大聖寺城城主・太田長知を殺害している。
  • 利長が家督を異母弟の前田利常に譲って隠居すると、これに随従し自らも剃髪・致仕するが、のち再度出仕。大坂冬の陣では金沢城の留守を務め、夏の陣では参陣した。本多政重と共に大坂城の修築工事も担当している。

3代:横山康玄  

  • 長知の嫡男。母は前田長種の養女(長種の実妹)。
  • 正室は高山右近の娘。継室は今枝直恒の娘。
  • 慶長19年(1614年)父長知が前田家を退身したため、同行し京都山科に居住する。
  • しかし同年大坂冬の陣が起こると、父と共に前田家に帰参し出陣する。元和元年(1615年)再び大坂夏の陣に出陣し、四宮右五衛門を討ち取る戦功を挙げる。元和2年(1616年)功を称され家老となり4000石の加増を受ける。
  • 正保2年(1645年)、父長知に先立って死去したため、家督は嫡男の忠次が嫡孫承祖した。
  • 娘2人は奥村庸礼の正室、横山武右衛門の正室となっている。

4代:横山忠次  

  • 康玄の子。母は今枝直恒の娘。
  • 兄弟に横山康次。
  • 正室は岡山藩家老日置忠治の養女(実父日置忠隆)で、子に横山玄位、横山任風らがいる。
  • 正保2年(1645年)父康玄が病死。祖父横山長知の隠居により家督と2万4000石の知行を相続する。
  • 正保4年(1647年)藩主前田綱紀に3000石を加増され、年寄、人持組頭となる。万治元年(1658年)小松城代となる。
  • 万治3年(1660年)、藩主綱紀の命で江戸に下向し勤務する。延宝7年(1679年)6月13日、病により京都に療養に向かう旅の途中で死去。享年55。
  • 家督は次男の玄位が相続した。

前田対馬守家  

  • 越中守山城代1万8000石・藩主一門

初代:前田長種  

  • 初代前田長種の妻は利家の長女幸。
  • 父前田長定は前田与十郎家の出身。与十郎家は、前田城、下之一色城を有し、前田利家の本家筋にあたるといわれる。本能寺の変ののちは織田信雄に仕えるが、小牧・長久手の戦いで滝川一益の誘いで羽柴秀吉陣営に寝返り蟹江城に籠城する。信雄・家康の連合軍に攻められて開城し、父長定は妻子とともに殺害された。
  • この時長種は本拠の下之一色城にいたが降伏し、妻幸の縁で前田利家を頼り家臣となる。
  • 天正13年、前田利長が越中守山に入城した際に従っている。その後は越中国守山城代となり、幼少時の加賀藩第3代藩主前田利常を養育した。慶長4年には富山城代を経て、慶長5年より小松城を守備し、慶長10年(1605年)に加賀国小松城代となり、2万石を給された。
  • 寛永年中に致仕し、剃髪して源峯と称す。寛永8年(1631年)3月11日小松にて没す。
  • 前田長種の四男直知があとを継ぎ、その後前田対馬守家として幕末まで続いた。

    二代美作直知、三代對馬直正、四代佐渡孝貞相継ぎて小松城を守りける處、寛永十六年利常卿小松を養老城と見定められしゆゑ金澤へ搬宅すと、三州志にいへり。(略)延宝の金澤圖に、前田對馬前口六十一間四尺とありて、西の方隣地前口四十間二尺御貸屋、其後、地は前田備前とあり。然るに後に右御貸屋及び前田備前の第地も賜はりて、一園の第地とはなしたり。明治廃藩の後前田氏等皆邸宅を売却し、悉く町家となし、地内にまた一町を建て、明治三年七月町名を梅本町とす。

2代:前田直知  

  • 父は前田長種。母は前田利家の長女幸姫。
  • 正室は前田利長の養女牧村氏(祖心尼)、継室は前田利長の養女竹(長連龍の娘。久香院、求光院)。
  • 子に前田直正、前田直成(町野直成)、前田恒知。
  • 前田利長に仕え知行5000石、慶長10年(1605年)に利長が隠居して富山城に移るときにも従っている。利長は慶長14年(1609年)に富山城が焼けると高岡城に移るが、この時も従っている。
  • 寛永ごろ父長種が隠居すると父の禄を合わせて1万石、人持組頭となる。さらに父の跡を次いで小松城代を務め、大坂冬の陣、大坂夏の陣に出陣した。病のため、隠居して家督を嫡男直正に譲り、京都で療養する。
  • 三男直成は1500石の分知を受け分家した。
  • 父長種に先立ち、寛永7年(1630年)9月23日没。享年45。

3代:前田直正  

  • 慶長10年(1605年)直知の子として生まれる。
  • 母は祖心尼。実弟に直成がいる。
  • 父が病で隠居し6500石の知行を相続。弟直成が母の再嫁先の町野家の養子となったため、その知行1500石も賜る。
  • 寛永7年(1630年)に父直知、寛永8年(1631年)祖父長種が死去し家督を相続。弟恒知に3000石分知し、叔母婿の長政に1000石を分知。知行1万7000石となる。人持組頭となり、祖父長種、父直知と同じく小松城代を務めた。
  • しかし相続まもない寛永8年(1631年)閏10月17日、江戸で急死する。

4代:前田孝貞  

  • 父は加賀藩人持組頭前田直正、母は安見氏という。後述。
  • 正室は本多政重の娘。
  • 寛永8年(1631年)、父・祖父の急死により、4歳で家督と1万7000石の知行を相続する。藩主前田利常の命で、叔父直成(祖心尼の次男)が家政を代行した。
  • 寛永20年(1643年)叔父直成に7000石を分知して禄高1万石となる。正保2年(1645年)直成が致仕すると、再びその禄7000石を賜る。
  • 慶安年中2000石加増。寛文9年(1669年)2000石加増され禄高2万1000石となる。家老、人持組頭、金沢城代となる。貞享3年(1686年)大年寄(大老)となる。天和3年(1683年)小松城代を兼ねる。元禄4年(1691年)12月従五位下佐渡守に叙任。翌年正月京都所司代小笠原長重も佐渡守であることから、駿河守に遷任。
  • 一説に、生母安見氏は前田利常が佐久間半右衛門の姉に産ませた子で、内密に安見元勝の養女とした。そのため孝貞は利常の外孫であるという。また藩主前田綱紀の娘豊姫の養育を任された。豊姫は孝貞の孫の孝資に嫁いでいる。
  • 茶道宗和流二代金森方氏の門人。

前田将監家・前田勘解由家  

  • 2代前田直知から四男恒知が初代となって前田将監家が分かれ、幕末まで続いている。また4代孝貞の次男孝和(勘解由)は前田勘解由家として分かれている。

奥村河内守家  

  • 奥村家は尾張前田家代々の譜代の臣で、奥村永福を家祖とする。奥村宗家。
  • 末森城代1万7000石

奥村永福  

  • 奥村助右衛門
  • 天文10年(1541年)尾張国に生まれ、前田利家の父利春(利昌)や兄前田利久に仕えた。信長の命により次男の前田利家が家督を継いだ際にはこれに抵抗し、前田家を辞し浪人している。
  • 天正元年(1573年)には帰参し、朝倉氏攻めなど各地で活躍した。後に加賀国に利家が入った際には、要衝の末森城を与えられる。天正12年(1584年)に越中国の佐々成政に1万5千の兵で末森城を攻められるが、寡兵で利家の援軍到着まで耐えぬき、成政軍を撃退した(末森城の戦い)。

村井家  

  • 松根城代1万6500石余
  • 利家の尾張時代からの臣。当初七家だった人持組に後から村井家が加わり、以降八家と称されたという。

初代:村井長頼  

  • はじめ、織田氏の家臣前田利久(利家の兄)に仕え、織田信長の命により利家が前田家を継ぐと、それに従って家臣となった。利家が一時織田家を辞した時にも従っており、また常に戦場でも共にあり幾度もその盾となって救っており、利家からは通称である又左衛門から「又」の字を拝領するほど信頼された。

2代:村井長次  

  • 父は村井長頼。
  • 1611年頃に細川忠隆と離縁した前田千世(春香院。前田利家と芳春院の七女)を正室として迎えている。
    細川忠隆は細川忠興(三斎)の長子。廃嫡され長岡休無と号し京都に隠棲する。長男の熊千代(忠春)の子が細川内膳家(長岡内膳家、6千石)を興し、肥後熊本藩一門家臣首座となる。忠隆との間に生まれた徳姫はのちに左大臣西園寺実晴室となり、福姫はのちに公家久世家初代の久世通式室となる。この縁で久世家は後々まで肥後細川家より助成米が贈られている。
  • 芳春院(まつ)の江戸人質の際にはこれに従って江戸に下りその地で没している。
  • 千世との間には実子はなく、村井家では長光織田有楽斎の嫡男長孝の次男)、女子(前田利政女)、女子(脇田兵部女)、女子(村井理斉(長頼弟)女)の養子女をとり、長次死後は長光が家督を継いだ。

3代:村井長家(長光 

  • 村井長家、兵庫もしくは飛騨とも言う。
  • 美濃野村藩主・織田長孝の四男として生まれる。織田有楽斎の孫。
  • 前田家家臣村井長次の養子となり、慶長18年(1612年)養父の死去により家督と知行1万7,240石を相続する。
  • 寛永14年(1637年)隠居して家督を嫡男の長朝に譲っている。

4代:村井長朝  

  • 父は加賀藩家臣村井長家。
  • 寛永14年(1637年)父の隠居により家督と知行1万6269石を相続。
  • 長朝の代に春香院の化粧料を相続して知行1万6,500石となっている。
  • 寛永14年(1637年)隠居して家督を嫡男の親長に譲り、明暦元年(1655年)没。享年36。
  • 村井家は、長朝嫡子の親長の代に藩主前田綱紀により七手頭(本多家、長家、前田土佐守家、前田対馬守家、奥村宗家、奥村分家)に村井家が加えられ、八家(加賀八家)となった。

奥村内膳家  

  • 奥村分家
  • 1万2000石・留守居役
  • 奥村永福の次男易英を祖とする。

2代:奥村庸礼  

  • 奥村庸礼は奥村分家第2代当主。父は易英の子、奥村和忠。寛永16年(1639年)に父が祖父に先立ち死去したため、孫の庸礼が家督を嫡孫承祖した。
  • 万治元年(1658年)本多政長と共に江戸城修復の課役を務める。万治3年(1660年)人持組組頭となる。貞享3年(1686年)大年寄。
  • 才知に溢れ、わずか19歳にして執政、25歳で家老に命じられたため人は速週太子と呼んだという。幕府の儒臣であった林鳳岡、木下順庵や水戸徳川家の客儒であった朱舜水を師として朱子学を学び、「読書抜尤録」二巻の著作がある。茶道宗和流二代金森方氏の門人であった。

3代:奥村悳輝  

  • 父庸礼の次男だが、兄が夭折したため嫡男となる。
  • 貞享3年(1686年)家老、貞享4年(1687年)父庸礼の死去により、家督と1万2450石を相続し、合わせて禄高1万7450石の人持組頭となる。
  • 宝永元年(1705年)12月従五位下丹波守に任官。宝永2年(1705年)閏4月20日、53歳で死去。
  • 家督は嫡男明敬が相続した。六男貴林は横山任風の養子となり、七男有定(定賢)は奥村宗家有輝の養子となって家督を相続した。
  • 父庸礼と同じく、藩主綱紀の命で儒学者朱舜水の弟子となっている。

前田土佐守家  

  • 小松城代1万1000石・藩主一門
  • 前田利家の次男前田利政を家祖とする。
  • 前田利政は、二代兼元作の「秋之嵐」や「二念仏兼元」を所持した。「秋之嵐」は前田土佐守家に代々伝来している。

2代:前田直之  

  • その子、前田直之は12歳で3代藩主利常に召し出され2,000石を禄す。芳春院没後、その遺知7,500石を贈られ、最終的に1万石の大身となる。人持組頭、小松城代を歴任する。

3代:前田直作  

  • 直之の長男。
  • 寛文元年(1661年)に20歳で元服し、寛文3年に5代加賀藩主前田綱紀の證人(人質)となって江戸へ赴き、1年間江戸で過ごす。
  • 正室の竹は、本多家2代当主政長の娘(前田利常の外孫)。

4代:前田直堅  

  • 直作の三男。
  • 元禄15年(1702)20歳の時に、前田土佐守家当主としてははじめて従五位下近江守に叙爵される。
  • 以後、前田土佐守家では歴代当主が従五位下に叙位される。大名の家臣の叙爵(陪臣叙爵)は、加賀藩以外では御三家と徳川一門に限られており全国的にみても大変珍しい。

5代:前田直躬  

  • 4代直堅の次男。
  • 18歳の時、従五位下土佐守に任命される。直躬以後、3人の当主が土佐守に任じられたため、当家は「前田土佐守家」と呼ばれるようになった。


陪臣叙爵  

  • 御三家や加賀前田家の家老は陪臣であったが、大名並みに諸大夫に叙爵された。このことを陪臣叙爵という。陪臣叙爵は駿府徳川家、甲府徳川家、館林徳川家、越前松平家、越後松平家にも認められていた。

利家時  

天正19年3月
村井長頼「豐後守」、篠原一孝「出羽守」
文禄3年
高畠定吉「石見守」、中川光重「武藏守」
文禄4年
奧村永福「伊豫守」、神谷守孝「信濃守」

利長時  

  • 利長の襲封した際には14人を数えたという。

利常時  

元和元年閏6月
本多政重「安房守」、横山長知「山城守」
正保三年長知卒、正保四年政重卒
元禄4年
本多政長「安房守」、前田孝貞「佐渡守」
孝貞はのち駿河守
元禄8年
長尚連「大隅守」
元禄15年
本多政敏「安房守」、前田直堅「近江守」、横山任風「山城守」
本多政長及び前田孝貞は共に退老済で計4名が叙爵。


経緯  

  • 4代藩主前田綱紀により整備されたもので、それまでの間に段階を経て決まっていったものと思われる。

利長隠居時  

  • 慶長10年(1605年)6月28日、隠居した利長に従い富山城に同行したもの。

    利長の從臣横山長知・篠原一孝・神尾之直・今枝重直・淺井左馬以下、皆今明年を以て邸を富山に構へ、而して城中殿閣の築造は、越えて十二年に至りしものゝ如し。

  • 同じ頃、襲封挨拶で江戸と駿府に赴いた利常に同行したもの。

    前田長種・奧村榮頼・水原左衞門

利長死亡時  

  • 慶長16年5月15日、死を迎えた利長が重臣に向けた書

    前田對馬守殿 前田修理亮殿 中川宗半 高山南坊 長左兵衞殿 横山山城守殿 山崎長門守殿 村井出雲守殿 篠原出羽守殿 岡島備中守殿 奧村河内守殿 富田越後守殿 近藤掃部殿 神谷信濃守殿 青山豐後守殿 三輪志摩守殿(以下略)

  • 特に前田長種と奧村永福には別に書状を出している。

    一、筑前守に、右彼是家中へ申出通、具に可レ被レ申候。則書中にも前田對馬・前田修理兩人に申付候通、書付遣候事。
    (略)
    前田對島守(長種)殿
    奧村伊豫守(永福)殿

関連項目