前田光高

前田光高(まえだみつたか)  

加賀藩3代藩主
2代藩主前田利常の長男
母は第2代将軍徳川秀忠の娘珠姫(天徳院、秀忠とお江の娘)
光高は2代将軍秀忠の外孫で、3代将軍家光は母方の叔父にあたる。
正四位下・左近衛権少将兼筑前守

生涯  

  • 両親共に美男美女と名高く、光高自身もかなりの美男子で家光の衆道の相手をしていたという噂が流れたこともある。

    光高人と爲り聰明秀發、容姿優美にして膂力あり。少にして武技に通じ、長ずるに及びて和漢の學に達す。

     浄光院
      ├──────保科正之───────┬保科正経
    ┌徳川秀忠               ├保科正容───────常姫
    │ ├─────┬徳川家光       └松嶺院摩須姫      │
    │崇源院江   ├千姫    ┌松平頼重  │          │
    │       ├東福門院  ├徳川光圀  │          │
    ├徳川頼房───│──────┴清泰院大姫 │          │
    │       └天徳院珠姫   ├──前田綱紀──前田吉徳─┬前田宗辰
    │ 寿福院千代保  ├────前田光高        │   ├前田重煕
    │   ├────前田利常【加賀前田家】       │   ├前田重靖
    │ 前田利家                     │   ├前田重教
    └徳川義直────────徳川光友───徳川綱誠──松姫   └前田治脩
    
    母の珠姫は秀忠の次女(母はお江)で、姉に千姫、妹には松平忠直室の勝姫、京極忠高室の初姫、3代将軍家光、松平忠長、東福門院徳川和子(後水尾天皇中宮、第109代明正天皇の母)がいる。
  • 初御目見得は元和7年5月25日。

    七年五月二十五日初めて江戸に往きて將軍秀忠に謁し、寛永六年四月廿三日將軍家光の朝堂に元服す。是の日正四位下に叙し、左近衞權少將に任ぜられ、筑前守を兼ぬ。將軍の偏諱を賜はりて光高と改めしも、亦この時に在り。

  • 寛永6年4月に家光の御前にて元服している。

    廿三日加賀中納言利常卿。これ迄筑前守なりしを肥前守と改め。長子犬千代元服して從四位下少將に叙任し。御名の一字を下され松平筑前守光高と稱せしめらる。これ大御所御外孫なり。よて中納言利常卿に來國次の御脇差。筑前守光高に正宗の御脇差を給はり。利常卿より吉光の脇差并銀三百枚。光高より信光の太刀。銀千枚獻ず。大御所より利常卿に則國の御脇差。光高に五月雨郷の御脇差をたまはり。利常卿貞宗の脇差并に銀三百枚。光高吉次の太刀。銀五百枚獻ず。

  • 正室は、徳川頼房の娘で徳川家光の養女大姫(清泰院)。

    光高の新夫人大姫は、實は水戸侯松平頼房の女にして、光圀の姊なり。寛永八年十二月十日將軍家光之を子養し、その利常に命じて光高の婦とすべきを定めたるは翌九年十二月十三日にして、十年十二月五日を以て來歸せり。是より先、前田氏は江戸の辰口邸に新殿を構へ、以て夫人の居に充てしが、その輪奐の壯麗なること實に人目を眩せしむるものあり。前田氏がいかに大姫の入輿を歡迎し、いかに幕府の滿足を求むるに努力せしかを見るべきなり。

    • 一説に家光の娘ともいう。

      或は言ふ、大姫は固より家光の女なりしが、故ありて水戸邸に育せられたるなりと。

  • 19日に御礼言上に登城している。

    十九日松平筑前守光高姫君降嫁の謝とて。時服五十。銀五百放獻じ。父中納言利常卿も時服三十。銀三百枚さゝぐ。共に太刀目録そひたり。御三獻のりて。光高へ貞宗の御刀。 黄門へ貞宗の御脇差たまはり。一門の輩も拜謁す。

  • 25日婚礼後に再度登城。

    大姫君の御方御婚禮行はれしかば。松平筑前守光高一文字の太刀。銀千枚。小袖百。絹二百疋獻じ。父の中納言利常卿行平太刀。金百枚。小袖五十。綿五百把獻じ。淡路守利次は太刀目録。小袖二十。宮松丸利治は太刀目録。小袖十獻ず。御座所に召て各御盃賜はり。光高に正宗の御刀。吉光の御脇差賜はり。利常卿へ正宗の御脇ざし賜はり。返盃して又五月雨郷の刀。正宗の脇差を獻ず。淡路守利次に來國光の御脇差下され。宮松丸利治にも行光の御脇差下され。ともに御盃たまはり。家臣本多安房守。横山山城守も拜して謝したてまつる。

  • 寛永9年に秀忠が薨去した際、形見分として「松井貞宗」を拝領した。

    後秀忠の遺物を諸侯に分かつに及び、利常は松井貞宗の刀及び銀一萬枚、世子光高は中川義弘の刀を受く。

  • 非常な腕力を持っており、指で碁石を碁盤に押し込んだという。

世継  

  • 寛永16年に父前田利常より家督を譲られている。

    利常實を以て告ぐらく、余の今次參府せしはその意將軍に謁して骸骨を乞はんが爲なり。若し幸にして允さるゝを得ば、加賀・能登・越中三國の領土を以て汝に贈らんと欲すと。(略)幕府乃ち五月十六日堀田加賀守正盛を使として利常の請を許すの意を告げしめ、次いで六月二十日光高に襲封の命を下せり。

  • 寛永20年には世継となる犬千代(後の前田綱紀)が生まれている。この時、光高はちょうど加賀を出て江戸へ向かっているところであったが、途中瑞夢を見て「開くより梅は千里の香かな」という句を読んだという。家臣たちはこの話を聞いて、きっとお生まれになる子は男子でございましょうといったといい、その後光高は道中を急がせわずか7日で江戸へ到着している。

    光高は、この年十月二十二日を以て金澤を發し江戸に赴きしが、途熊谷驛を過ぎし頃、輿中に坐睡して『開くより梅は千里の香かな』の句を得たり。光高覺めて之を左右に語りしに、衆皆判じて瑞兆なりとなし、偶夫人の産期將に近きに在りしが故に、その兒の必ず男子なるべきを言ひしが、後果して驗ありき。犬千代は長じて綱紀といひしものなり。光高今次の旅行極めて怱忙、前後僅かに七日にして二十八日江戸に達し、尋いで府城に登りて將軍に謁せしに、家光はその女壻の健在なるを見て大に喜べり。

最期  

  • 光高は茶会の席で突然倒れてそのまま卒したという。享年30。

    正保二年四月五日老中酒井忠勝以下幕吏數人を江戸の辰口邸に招き饗せしとき、宴半ばにして光高は卒倒せしまゝ卒し、人をして眞に皇天の無情なるを嘆ぜしめき。

  • なお光高はこの年の始に次のような歌を詠んでおり、周囲がその調べの妙なるを賞賛するのに対して、ひとり今枝直恒は凶兆であると心配していたところにこの急死があったともいう。

    われことし三十文字あまり一文字を歌によまるゝ年の數かな

  • 家督および藩主の座は幼少の嫡男犬千代(のち元服して綱利、前田綱紀と改名)が継いだが、初めの頃は祖父である前田利常がそれを補佐する体制がとられた。十九日光高の柩金澤に達し、五月十目荼毗して天徳院に葬る。

逸話  

  • 隣藩の福井藩主松平忠昌結城秀康の次男)は江戸でも向かいの屋敷に住んでいた。光高と異なり松平忠昌は酒豪であったため、家光が酒を控えるようにいったところ、短冊に狂歌をしたためて返してよこしたという。「向いなる加賀の筑前(前田筑前守光高)下戸なれど 三十一で昨日死にけり」。この返事を受け取った家光は諭すのを諦めたが、忠昌は光高の4ヶ月後に亡くなった。

    越前宰相忠昌の邸光高の舘と相對す。忠昌常に大酒を好みしを以て、醫師某之を諫めたりしに、忠昌は『むかうなる加賀の筑前下戸なれど三十一で病死をぞする』との狂歌を以て之に應へたり

寛政重脩諸家譜  

  • 寛永6年(1629年)4月23日家光御前にて元服。諱賜り光高と名乗る。正四位下少将、筑前守。この日、秀忠より五月雨郷の御刀、家光より正宗の御刀を賜う。
  • 26日家光が別業に渡御。真長の御太刀貞宗(守)の御脇指を賜る。光高もまた正恒太刀、包永の刀、當麻の脇指を献ず。
  • 29日有徳院(厳有院の誤記?)にもいらせたまい、一文字の御太刀、二字国俊の御刀を賜い、光高も守家の太刀長光の刀、景光の脇指を献ず。
  • 寛永9年(1632年)12月13日家光養女大姫を嫁せらるべきむね仰せ。
  • 19日父とともに登営し謝したてまつる。貞宗の御刀を賜う
  • 寛永10年(1633年)入輿ありて、のち登営。太郎作正宗の御刀、品の藤四郎の御脇指を拝賜。光高も一文字の太刀を献ず。
  • 寛永16年(1639年)11月26日初めて入国の暇乞い。行光の御脇指を拝賜。

徳川実紀の贈答  

  • 寛永6年3月に拝領

    二十三日香が中納言利常卿。これ迄筑前守なりしを肥前守と改め。長子犬千代元服して従四位下少将に叙任し。御名の一字を下され松平筑前守光高と称せしめらる。これ大御所御外孫なり。よて中納言利常卿に来国次の御脇差。筑前守光高に正宗の御脇差を給はり。利常卿より吉光の脇差并銀三百枚。光高より信光の太刀。銀千枚献ず。大御所より利常卿に則国の御脇差。光高に五月雨郷の御脇差をたまはり。利常卿貞宗の脇差并に銀三百枚。光高吉次の太刀。銀五百枚献ず。

  • 寛永3年3月26日

    廿六日加賀中納言利常卿が上野の別墅にならせ給ふ。利常卿に二字國俊の御太刀。秋田正宗の御脇差。銀三千枚。時服三百。夜着二十。羅紗三十間。長子筑前守光高に眞長の御太刀貞宗の御脇差。銀千枚。

    秋田正宗とは「石井正宗」のこと。

  • 寛永6年4月

    廿九日大御所。加賀黄門利常卿の別墅にならせ給ふ。(略)この間饗宴をひらき、黄門御盃給る時、正恒の御刀、池田正宗の御脇差、銀二千枚、小袖五十、袷五十、八丈縞二百反賜わる。

関連項目