刀工

刀工(とうこう)  

日本刀を作る職人のこと
刀鍛冶、小鍛冶

  • 鍛人(かぬち)、鍛師(かなち)、刀鍛冶(かたなかじ)、刀匠(とうしょう)、刀師(かたなし)などとも。

書きかけ・整理中の項目です。

Table of Contents

概要  

  • 鍛冶技術を用いて刀を鍛えることを旨とする。
  • 一般に鍛刀技術などを伝承することが多く、刀工集団として認識され、「~派」などと呼ばれる。
  • 刀工は、時代区分や地方ごとに分けて認識される。これは古くは砂鉄掘り~タタラ製鉄~鍛刀までをすべて刀鍛冶が行っていたことに由来する。また当初は製鉄技術が基調であり租税対象であったことから朝廷の置かれた畿内を中心に発達した。
  • 鎌倉時代には鎌倉に置かれた幕府の需要に応えるために備前や山城から刀工が招聘され、相州伝が興った。また美濃でも鍛刀が盛んに行われ美濃伝が発達した。
  • 室町時代には各地で戦乱が起こったことで需要が増加し、また流通が変化したことから五カ伝以外の土地でも鍛刀が盛んに行われるようになる。

時代区分  

古刀平安時代中期~桃山時代末期
新刀前期慶長元年(1596)~慶安末年(1652)
中期慶安末年(1652)~元禄末年(1704)
後期元禄末年(1704)~安永末年(1781)
新々刀天明元年(1781)以降

古刀  

  • 延喜以後の反張刀であり、平安時代中期~桃山時代末期(=慶長元年(1596)以前)に作刀された日本刀古刀と呼ぶ。
  • いわゆる「五カ伝」が確立した時期。
  • 当時本阿弥家では古刀のみに代付けを行い、慶長以降に作刀された刀に対しては代付けしなかった。これがすなわち古刀である。

新刀  

  • 慶長以降に作刀されたもの。
  • 新刀」と「古刀」を区別したのは、享保ごろの神田白龍子の「新刃銘盡」であるとされる。

新々刀  

  • 江戸末期天明元年以降に作刀された刀を指す言葉。

その他  

上古刀  

  • 古刀以前の刀。直刀が主で、現在では日本刀には入れない。

古刀  

  • 室町時代末期、応永以降の概ね戦国時代頃の古刀を、「末古刀」と呼び、区別することがある。急激な需要増に応え量産されたため「数打ち」の粗製濫造品が多い。

幕末刀  

  • 新々刀の内でも幕末頃に作成されたもの。

昭和刀  

  • 主に軍刀向けとして作られた刀をさす。美術刀剣としての日本刀の分類から除外されることが多い。

五カ伝と脇物  

  • 日本刀はどこの産地で造られたかにより特徴があり、著名な産地は五カ伝と呼ばれる。
  • 五カ伝とは大和伝山城伝備前伝美濃伝、相模伝の5つを指し、脇物とは五カ伝とは異なり独自の作風の刀工の作を指す。

山城伝  

  • 三条小鍛冶宗近、子の吉家。他に有国、近村、宗利、有成(河内で作刀した)。
古京物
宗近・吉家等の三条派、兼永・国永等の五条派、又、国友・久国・国清・有国・国綱等の初期粟田口派の刀工達の存在が知られている。古京物は鎌倉初期を下らぬ京物を指す。
  • 鎌倉初~中期
粟田口
開祖は粟田口国家国家の子が粟田口六兄弟。国友、久国、国安、国綱らが後鳥羽院御番鍛冶と伝わる。新藤五国光、藤四郎吉光を出す
来一門
来派。来国吉を開祖とし、来国行、二字国俊来国光、光包、来国次、来国俊などを輩出する。中堂来へつながる。
綾小路派
定利、定吉
中堂来
光包は中堂来と称せられているが、この事は彼が比叡山根本中堂に篭って鍛刀した事に因る
  • 鎌倉末期:
了戒
国俊の子、あるいは二字国俊の子
信国
了戒の系統をひく一派。初代信国は相州貞宗の門人という。
長谷部派
信国派と並んで、南北朝期の山城鍛冶を代表する存在。初代長谷部国重は相州正宗の門人という。国重・国信の両者が著名で、他に国平・宗信・重信等。
達磨派
「達磨」の二字銘を切る。初代の顔が達磨に似ており目が大きかったので達磨入道、タカシ達磨と呼んだという。大和の生まれ、薩摩波平正国末流とも。初代は初め「重光」、「正宗」と切ったという説もある。二代にも正宗と切った説がある。「正光」。三代正光は美濃蜂屋に降り、蜂屋達磨、蜂屋関と呼ばれた。
  • 室町中期以降、京都の地は長い戦乱に巻き込まれたため、三条吉則三条長吉、洛外の鞍馬派や達磨派などが知られる程度となる。

大和伝  

  • 大宝年間:天国(小鴉丸)、天座、藤戸、友光。ただし直刀の時代とされる。
    • 友光は文殊派の祖ともいい、平重衡の下食丸の作者とも。
  • 永延ごろ:安則。清新太夫と号し、石通丸(石徹丸)を作る。目釘孔が瓜実形をしているため、大和瓜実と呼ぶ。
大和五派
平安時代後期以降、大和五派と呼ばれる千手院、当麻、尻懸、保昌、手掻一派が興った
千手院
長吉。平安末期に東大寺付属の行信から発展。鎌倉中期に重弘を祖とする中千手院派が復興。
手掻
転害、天蓋とも。東大寺転害門前に包永を祖として発展。室町期まで末手掻派が残り、美濃に移って美濃物を形成するに至る。新刀期になると末手掻派は文殊派を名乗り、主流は山城伏見に移る。
当麻
国行が開祖。当麻寺門前。
保昌
鎌倉末期、大和保昌派は高市郡に住し鎌倉時代中期の国光に始まる。その子が保昌五郎貞宗、左衛門尉貞吉、藤原貞清。柾目鍛えという独特の鍛法で新風を吹き込んだ。
  • 貞吉の作には、居住地、制作年を記したものが数口ある。
竜門派
吉野郡の延吉を祖とする。
宇多派
宇多郡に州光を祖として興る。のち越中に移る。
金房派
戦国期、奈良市中。
尻懸
則長。長光注進物に名があがり注進の鑪が檜垣になっているため「檜垣鑪長光」という。延慶ごろ。
  • 戦国期以降美濃に移住し、美濃伝を興す

備前伝  

古備前派
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての備前の刀工及びその昨刀を総称するもの。友成正恒包平、助平、高平を指して古備前物と呼び、古刀最上作に数えられる。後三者の包平、助平、高平は古備前の三平とも呼ばれる。
福岡一文字派
正恒系の刀工である定則の子・則宗福岡一文字派の祖となる。御番鍛冶13工のうち、7工を出した。正月番則宗、三月番延房、七月番宗吉、九月番助宗、十月番行国、十一月番助成、十二月番助延。
備前三郎国宗後鳥羽院に召しだされのち鎌倉に下り新藤五国光を門人とする。
長船派
正恒系に属したとされる近忠の子光忠に始まり、長光景光真長を長船三作、長光兼光元重長義を長船四天王とする。室町期の師光・康光・盛光は応永備前の三光と呼ばれる。戦国期の末備前では勝光が出た。
畠田派
備前守家を祖とする。「備前国長船住 守近孫守家造(花押)」と切ったものがある。守近─宗家─守家、宗吉─宗家─守家、守近─真守─守家などとする。畠田守家と呼ぶが、「長船住」や「福岡住」とだけ切り、「畠田住」と切ったものはない。初代守家は銘振りが大きく「大銘の守家」と呼ばれ、守の寸の点が横線に罹りナの字形になる。二代は銘振りが小さいので「小銘の守家」と呼ぶ。寸の点が横線にかからない。

美濃伝  

  • 西部派:青墓の長者が源氏の重宝「髭切」を模造させたという。永仁ごろに寿命が現れ、清水や関などに移住しつつ新々刀期まで続いた。
  • 鎌倉末期~南北朝に掛けての世情の乱れに乗ずる形で、志津の地に志津三郎兼氏の一派、赤坂に千手院系の一派、北陸から金重、為継らが移住することで始まったという。
  • 越前国から国長・国行・為継らが赤坂へ、大和国から兼光(元重また兼重。備前長船兼光とは別人)が関へ。
  • 兼光の子兼友は敬阿弥と号し、美濃刀工の祖となる。子に三阿弥兼則。
  • 濃州赤坂住兼元(孫六兼元)、二代兼定(之定)、兼氏、兼友、兼房などが高名。
志津
建武の騒乱の需要に乗じ、大和の手掻包永が美濃南端海津郡志津に移住したもの。正宗の門人兼氏が来往して作刀した事から、地名をとって志津三郎兼氏と呼称している。従って単に志津と呼ぶ場合は、兼氏を意味する事になる。兼氏は正宗十哲に数えられる。
直江志津
直江志津とは兼氏の門人である兼友・兼俊・兼次等が志津の地から北上して養老郡直江の地に移住したため、これらの門人たちを総称していう。室町期まで活躍。
赤坂千手院
大和千手院派の国長が南北朝抗争時に不破郡赤坂に移住したもの。「千手院」とだけ銘を切るものも居る。室町中期まで続いた。
金重
越前から清泉寺の僧金重が武儀郡関に移住した。金重正宗十哲のひとりとされるが、大和から移ってきた兼永・兼光らの系統に吸収され三代で消滅した。
関系
鎌倉末期、大和から兼永が移住し関鍛冶の基礎を築いた。その後、兼光が門人の育成に長じており門弟が分かれ関七流を形成する。
関七流
善定派(兼吉)・室屋派(兼在)・良賢派(兼行・兼宗)・奈良派(兼常・久阿)・得永(徳永)派(兼弘)・三阿弥派(兼則)・得印派(兼安)の総称
得印流
兼光の曾孫又六兼安が法名得印といい、この子孫を得印流という。兼久、兼辰、兼岸、兼時。新刀の山城守秀辰、尾州相模守家久。
徳永流
兼光子孫の左衛門四郎兼弘が法名徳永といったので、徳永流という。兼宣、兼明、兼綱。新刀の近江守清宣、備中守清宣なども入る。なお信濃守兼定や和泉守兼定はこの分流である。
  • 高天神兼明:右衛門四郎。甲斐武田氏に招かれたとも、今川了俊が招いたともいう。
蜂屋系
京の達磨正光が応永年間に賀茂郡蜂屋に移住。門下に兼貞が現れ、戦国期まで数代続いた。
坂倉系
室町中期、賀茂郡坂倉に出現した正吉、正利らの一派は「正」の字が村正流になっている。
平賀系
戦国期はじめ、兼宣が関より分派賀茂郡平賀に独立した。

相模伝  

新藤五国光
 
藤三郎行光
 
正宗十哲
山城 来国次 / 山城 長谷部国重 / 越中 郷義弘 / 越中 則重(郷則重) / 美濃 志津三郎兼氏 / 美濃 金重 / 備前長船兼光 / 備前 長義 / 筑前 左安吉(左文字) / 石見 直綱
貞宗
 
綱広
山村姓。初代は初め正広と切る。天正7年に北条氏綱の命で鶴岡八幡宮奉納の大太刀(「相州住綱広」)を打った際に綱の字を与えられ対馬守を受領(天文10年以前)。二代は天正19年に家康に召し抱えられる。三代は宗右衛門。慶長9年から11年まで津軽藩の招きで弘前城下で駐槌。四代は勘兵衛・勘右衛門。五代は弥右衛門。万治元年伊予大掾受領。のち伊予守。六代弥右衛門。貞享5年に養子となる。豊後大掾受領。8代将軍義統に召され、浜御殿で鍛刀奉仕する。
  • 打刀 銘「津軽主為信相州綱廣呼下作之/慶長十一丙午年八月 吉日三百腰ノ内」刃長二尺三寸。津軽義孝伯爵所持
  • 脇指 銘「津軽主為信相州綱廣呼下作之」刃長一尺一寸三分。津軽義孝伯爵所持
石見直綱
石見の刀工。説により正宗十哲に数えられる。




脇物  

東北  

舞草
舞草鍛冶は奥州東盤井郡舞草(現一関市)周辺に居住した刀工。
安房
承平ごろ。その後、雄安、森房、光長、森戸、有正、幡房、朝長、諷誦らがいたとする。
雄安
源義家が奥州征伐の際に、雄安、森房、鬼王丸、諷誦らを連れて行った所、雄安は安倍貞任に奪われたという。藤原秀衡は雄安の太刀を秘蔵し、臨終の際に嫡男国衡に譲ったという。
舞草光長
刀三千本を造り、朝廷に献上したという。
宝寿
平泉住。鎌倉末期の正和から室町期まで数代にわたって年記入り銘を残す。

東海  

島田
志太郡島田宿にいた刀工群。最古のものは助宗で文安3年(1446年)。儀助で康正2年(1456年)。その後、国助、広助、輝助らを排出。以上を古刀五鍛冶と呼ぶ。新刀期には儀助、助宗、広助、貞助、忠広らを新刀五鍛冶と呼ぶ。末相州風を主流とし、「おそらく造り」は島田鍛冶の創始という。槍が多く、武田武士の注文打ちが多い。

中部  

越中則重
砺波郡小谷部住重国の小。通称新五郎、神五郎。のち三郎次郎。越中婦負郡(ねい)御服庄にいたため、御服郷、御服江、御福郷、ゴフクゴウなどとも呼ばれる。相州正宗に師事(最初郷義弘に師事とも)。刀銘には延慶から嘉暦まであり、正宗と同輩、義弘より先輩となる。享保名物秋田則重」がある。
古宇多
越中。鎌倉末期の古入道国光を祖として、南北朝時代に国房・国宗・国次等の刀工。
越前盛重
銘「一越州敦賀住盛重作」
千代鶴
越前千代鶴は来国安門の千代鶴国安を祖とする。千代鶴国行「越州住藤原国行」。貞治元年銘。「越州敦賀光行」嘉慶2年銘。光行は国行の子とする。

近畿  

龍門
大和龍門派は千手院派の流れを汲むと伝え、吉野から宇陀へ抜ける吉野郡龍門荘に住した事からこの名があり、延吉によって代表される。
中島来
来国長は来国俊の門人であるが、後に京より摂津の中島に移住した事から中島来と通称されている。
高木
近江。高木貞宗を指し、相州貞宗の門人という。
甘呂
甘呂俊長。高木貞宗の門人と伝えられる。銘「江州高木住俊長」「江州甘呂俊長」など。父は高木貞宗門下の友長。通称天九郎。

中国  

大原安綱
安綱を始め、その子と伝えられる真守、一門の有綱・貞綱・安家・真景等の一類は、「古伯耆」と総称される。
青江
備中古青江派。安次・則高・正恒など。貞次・恒次・次家の三兄弟が御番鍛冶を務める。古青江正恒
青江
吉次、次直の親子
片山一文字
備前福岡一文字の則房が備中片山に移住。
三原
三原派は備後国三原の地に栄えたが、その中でも鎌倉末期から南北朝期にかけてのものを古三原と総称しており、正家・正広・貞広・光正・政広等。室町期のものを「末三原」と呼ぶ。
古水田
国重派。
水田派
慶長の新刀期に大与五国重。一門の国光は大阪天満(天満水田)、江戸(江戸水田)に移住した。寛政頃には女国重がでた。
辰房派
三原のうち尾道の重光、重道らを呼ぶ。
五阿弥派
三原のうち宴行らを呼ぶ。また房行らは其阿弥派とも呼ぶ。
古吉井
備前。鎌倉後期に為則を祖として始まる。景則・則綱・盛則・真則等。
大宮
遠祖国盛が山城国猪熊通大宮より備前へ移住した事による。盛景。
小反
南北朝時代後期の長船鍛冶で、兼光及びその一門や長義元重・大宮等の流派に属さない系統の明らかでない多くの刀工を一括して古来より「小反り物」と呼ぶ。秀光・成家・家守・恒弘。
二王
周防国二王派は、清綱を事実上の祖として始まり南北朝・室町期を経て新刀期にまで及ぶ。古くは清綱・清久がおり、応永頃に清永・倫清・盛清等。
法城寺
法城寺は但馬国の地名で、南北朝時代この地に国光が在住し一派をなした。

九州  

三池
筑後国三池の地に在住した刀工達。光世は一人だけでなく、その後も同銘は鎌倉時代から室町時代へと継承されている。
古波平
薩摩国谷山群波平の地に、平安時代の永延頃に大和から「正国」なる刀工が来住して波平派の祖となるという。その子を行安といい、門流は連綿と近世末に迄及んでいる。古波平とは南北朝期を降らない一派の刀工及び、その作刀の汎称。
同田貫
 
延寿
肥後国延寿派。来国行孫と伝える太郎国村が開祖。国資・国時・国泰・国吉など。
古金剛兵衛
左文字と派を異にする筑前国の鍛冶で代々盛高を称する。
平戸左
肥前国平戸に南北朝期に盛広その子盛吉がおり、盛広は左の一派と伝え、これを平戸左と呼んでいる。南北朝後期から室町初期にかけて守貞・貞清がいる。
高田
豊後。新刀まで栄える。初代友行は建武から正平で相州貞宗の弟子。二代友行は貞治から至徳ごろ。時行、貞行、実行など。
僧定秀
彦山の学頭。養和ごろ。公爵毛利家「豊後国僧定秀」二尺七寸一分半、生ぶなかご、目釘孔1個。
備後守氏房
新刀薩摩刀工のはじまり。子に伊豆守正房。
一平安代
享保頃の新刀。8代将軍の命で浜御殿で鍛刀し、一葉葵紋を許される。
主水正正清
享保頃の新刀。8代将軍の命で浜御殿で鍛刀し、一葉葵紋を許される。


四か伝(しかでん)  

  • 全国の刀工の剣形、格好を四種に分類したもの。
  1. 京の来物、粟田口物、肥後延寿物、古青江物、因幡小鍛治物
  2. 大和物、古関物、備後三原物、但馬法成寺物、薩州波平物、周防仁王物、筑前金剛兵衛物、末相州物
  3. 相州正宗派およびその門人
  4. 備前物

仁義礼智信の伝  

  • 備前物を仁、相州物を義、京物を礼、大和物を智、九州物を信と見立てる教え。
  • 五カ伝の原型。