六股長義

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六股長義(むつももちょうぎ)  


額銘 長義
号 六股切
二尺四寸一分五厘、反り七分

  • 備前長船長義の作
  • 長義には、他にも八文字長義山姥切などすさまじい切れ味を示したものが伝わる。
  • 豪壮な鎬造りで大切先、佩表に二筋樋に剣巻き竜(草の倶利伽羅)、磨上のため竜の頭だけが刃区の上に出ていた。裏には二筋樋と素剣の彫り物。
  • 中心磨上、中心先に「備」の字だけが残る。その上に「長義作」を額銘で嵌める。
  • むつももぎり、むつまた

由来  

  • 家康家臣の大久保忠世の所持で、忠世はこの長義を「老の杖」と名付け秘蔵したという。
  • 天正年間(天正二年)、大久保忠世は小田原城の城番となっていた。ある夜盗賊が3人忍び入ったのを、忠世がこの長義で払ったところ、三人共一刀で太ももを斬られ、どっと倒れたという。
  • 3人の6つの股を斬ったことから「六股」と号せられるようになった。
    天正18年(1590年)に秀吉による小田原城攻めが行われ、その後の家康の関東移封に従い小田原城城には4万5千石で大久保忠世が入った。文禄3年(1594年)に忠世が死ぬと、嫡子の大久保忠隣が城主となる。忠隣は、大久保長安事件に連座し慶長19年(1614年)に改易され、小田原城は二の丸・三の丸の石垣・城門が破壊された。この後、阿部正次、稲葉正勝・正則が入った後に忠隣の孫に当たる大久保忠朝が入り明治まで続いた。この「六股長義」の逸話は前期大久保期のものと思われる。

    天正2年(1574年)、遠江犬居城の戦の折りに、大久保忠世と水野忠重が殿(しんがり)を命じられ、そのとき追ってきた城方(武田方)天野景貫の兵三人の股を斬り払ったためとも伝わる。敵兵の抵抗により崖下に落とされるが、這い上がって待ち伏せしていた敵兵3人を切り払ったともいう。

来歴  

  • 以来、大久保家では藩士が誓いをなすときに「長義の刀も御照覧あれ、偽りは申す間敷」といったと伝わる。
  • 小田原城の天守閣に祀ってあったが、いつのころか天守が炎上し、足軽の一人が駆け上りこの刀を抱えて飛び降りた。足軽は即死したが刀は無事であったという。
  • この逸話は恐らく元禄16年(1703年)の南関東駿豆地震(元禄地震)に伴う火災で天守が焼け落ちた際のものと思われる。※後期大久保期の小田原城。

    城辺り、近藤庄右衛門宅より火出でて、直ちに天守に火移り、焼け立ち、御殿へも火移
    (小田原 近世史稿本下巻)

年月城主事柄
寛永10年(1633年)稲葉正則駿豆相大地震により小田原城に被害
元禄16年(1703年)大久保忠増南関東駿豆地震。石垣が崩れ、天守等が類焼
宝永4年(1707年)富士山が噴火して火山灰が降下
天明2年(1782年)大久保忠顕武相大地震。天守が傾き石垣が崩れる
天保14年(1843年)大久保忠懇天保地震
嘉永6年(1853年)大久保忠礼嘉永大地震。城の各所に被害
  • 戦前まで大久保家に伝わる。大久保忠言子爵所持。
  • 太平洋戦争の際に焼身となり放棄された。




元禄地震  

  • 元禄16年11月23日(1703年12月31日)午前2時ごろ、関東地方を襲った巨大地震。
  • 震源は相模トラフの房総半島南端にあたる千葉県の野島崎と推定され、マグニチュード(M)は7.9-8.2と推定されている。
  • 大正12年(1923年)に起きた関東地震(関東大震災)と同タイプの海溝型地震である上に、震源分布図も類似することから大正関東地震以前の関東地震と考えられている。
  • 相模灘沿いや房総半島南部で被害が大きく、相模国(神奈川県)の小田原城下では地震後に大火が発生し、小田原城の天守も焼失する壊滅的被害を及ぼし、小田原領内の倒壊家屋約8,000戸、死者約2,300名、東海道の諸宿場でも家屋が倒壊し、川崎宿から小田原宿までの被害が顕著であった。

    大久保隠州在城を初め城下の町々火半ハ震たふす、其中にも事たすかりし家も多くして城中より俄に出火あつて在々所々方時の中に炎滅せり。(略)老少男女津波の難を恐れ高江登り里を去り用心をせし所に、其高さ十丈余の津波黒雲の如くにおほひ来り八里か内に打上たり。数千の男女死をのかるゝにいとまなく一命を失ひしものすへて弐千余人也。男浪女浪の引けれハ半残りし男女己か在所に走り住にし里を尋るになごりもなくしらなみ岸にのこり浦々里々一宇も残らす滅亡せり。(震火記)




同名刀  

  • 同様に「六股」と名がつく刀がある。

六股助包(むつまたすけかね)  

  • 貞永ごろの備前助包作の太刀
  • 3人の股を一度に切り払ったという。

六股成宗(むつももなりむね)  

  • 備前福岡一文字成宗作の太刀