俵藤太

俵藤太(たわらのとうた)  

藤原秀郷の異称
英雄的側面が各種説話で取り上げられ様々な伝説を生んだ
田原藤太

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藤原秀郷(ふじわらのひでさと)  

  • 平安中期の貴族で武将。
    藤原北家魚名流、藤原村雄の子とするのが通説。
  • 下野国の在庁官人として勢力を保持していたが、延喜16年(916年)隣国上野国衙への反対闘争に加担連座し、一族17(もしくは18)名とともに流罪とされた。

    下野国言。罪人藤原秀郷。同兼有。高郷。興貞等十八人。重仰国宰。随其罪科。各令配流之由。重下知之。
    (日本紀略 延喜十六年八月十二日条)

  • 天慶2年(939年)に平将門が「新皇」を自称し兵を挙げると、藤原秀郷は甥の平貞盛や藤原為憲と連合し、翌天慶3年(940年)2月には乱を平定している。
    この平貞盛の養子となったのが余五将軍の平維茂。平貞盛は後に鎮守府将軍となり丹波守や陸奥守を歴任、従四位下に叙せられ「平将軍」と称した。
  • 秀郷は宇都宮大明神(現宇都宮二荒山神社、栃木県宇都宮市)で授かった霊剣をもって将門を討ったと言う。また平将門の乱において藤原秀郷が着用したとの伝承がある兜「三十八間星兜」が現存し宇都宮二荒山神社に伝わる(国の重要美術品、昭和9年指定)。
  • この功により、秀郷は従四下に叙され下野・武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍に任じられる。
  • 藤原秀郷は江州栗田郡田原に住したといい、田原藤太または近江藤太八幡太郎とも呼ばれる。藤太は藤原氏の太郎の意。
  • 平将門を打ちとった武門の棟梁として、関東を中心として古来多数の武家が藤原秀郷後裔を自称する。


田原藤太  

  • 説話などで、「田原藤太」として登場する。
  • 初出は平安時代末期成立の「今昔物語集」とされる。

平将門の弱点  

  • 平将門の討伐を命じられるが、攻めあぐねる。さらに将門は7人おりどれが本物かがわからなかったという。
  • 藤太は、将門の愛妾とされる桔梗(あるいは小少将。龍神の化身)から平将門のと弱点(本物はこめかみが動き、そこが弱点である)とを聞き出し、見事討ち取ることができたという。

百足退治  

  • ある時、瀬田の唐橋に大蛇が横たわり通行の邪魔になっていたのを俵藤太がどかせたところ、その大蛇は琵琶湖に住む龍神だといい、三上山(近江富士)の百足に苦しめられていると言ったという。
  • そこで三上山の百足を退治すると、黄金札(こがねざね)の鎧と太刀、赤銅の鐘を贈られたという。

猿丸大夫伝説  

  • 下野国には、日光山と赤城山の神戦の中で大百足に姿を変えた赤城山の神を猿丸大夫(または猟師の磐次・磐三郎)が討つという伝説がある。百足退治の話は、これが田原藤太に結びついたものとされる。

蜈蚣切(むかできり)」  

太刀
無銘(伝 神息
伝 10世紀平安時代中期
伝 藤原秀郷佩用
号 蜈蚣切
刃長二尺五寸五分
伊勢神宮所蔵

  • 伊勢神宮には、秀郷が百足退治に際して龍神から送られた、という伝来のある太刀が奉納されており、「蜈蚣切」(蜈蚣切丸、とも)の名で宝刀として所蔵されている。
  • 明和2年(1765年)奉納。奉納時は白鞘で、表に「奉献神息太刀一腰為諸願成就」裏に「明和二年乙酉四月吉日 濱地重郎兵衛重興」と鞘書きがあったという。