佐竹義重

佐竹義重(さたけよししげ)  

戦国時代の武将
佐竹氏第18代当主
常陸介
鬼義重、坂東太郎

生涯  

  • 永禄5年(1562年)17代当主である父佐竹義昭の跡をつぎ、北条氏と関東の覇権を巡って争い、佐竹氏の全盛期を築き上げた。
  • また最新の冶金技術を導入して領内の金山開発を行い、豊富な資金力を背景に関東一の鉄砲隊を備えたという。

常陸統一  

  • さらに早くから中央の豊臣秀吉に誼を通じ、後には急速に勢力を拡大しつつあった伊達氏と対立する。
  • 天正17年(1589年)の隠居後も実権を握り、天正18年(1590年)の小田原攻めでも石田三成の忍城攻めなどで貢献する。奥州仕置にも従ったことから義重は秀吉から常陸国54万石の支配権を認められ、一気に状況を挽回することに成功した。
  • その後、水戸城の江戸氏を攻め、府中の大掾氏を降し、天正19年(1591年)には鹿島氏など大掾氏一族の国人領主を太田城に招いて謀殺するなどして常陸国内を統一した。

出羽久保田転封  

  • 関が原では時流を見て家康に付くと決めるが、嫡子の義宣が石田三成に付こうとしたことで父子は対立。どっちつかずの姿勢が仇となり、佐竹氏は出羽久保田20万石へ減封されてしまう。
  • 久保田移転後は、相次ぐ反佐竹一揆に対応するため義宣とは別に六郷城に居を構え所領南部の見張りを行っていた。慶長17年(1612年)4月19日、狩猟中に落馬して死去した。享年66。

逸話  

鬼義重  

  • 戦場で北条方と対峙した時、北条方のあまりの多さに味方が怖気づいていたが、義重は突撃し瞬く間に7人の敵を斬り伏せ、そのあまりの勇猛さから「鬼義重」または「坂東太郎」と呼ばれたという。

八文字長義  

  • 永禄10年(1567)に北条氏政が下妻城主多賀谷政経を攻めた際に、佐竹義重は政経の援軍として出陣する。義重が長義作の大刀をふるい北条方の騎馬武者の頭上から一撃したところ、兜もろとも頭部が真っ二つにわれ、馬の左右に八文字形になって落下したという。

上杉謙信  

  • 上杉謙信が関東平野で北条氏康と対峙した際、水戸の佐竹義重が三千人を率いて上杉方の味方に参じた。謙信大いに喜び、自ら近習を率いて佐竹陣に赴き、厚く来陣の礼を謝し、帯びていた「典厩割国宗」を贈ったという。
  • さらに上杉謙信は晩年にも「夢切り国宗」を贈っている。この時は我が武勇を継いでくれるのは貴殿以外にいないという書状を添えている。

敷布団  

  • 義重は就寝時に敷布団を使わず、薄い布だけ敷いて寝ていたという逸話がある。出羽に転封された後、「北国は寒いから」と子の義宣から寝巻きと敷布団を送られて使ってみたものの結局気に入らず、再び敷布団を使うことはなかったという。

秋田美人  

関連項目