中務正宗

中務正宗(なかつかさまさむね)  


金象嵌銘 正宗 本阿(花押)/本多中務所持
名物 中務正宗(桑名正宗
長2尺2寸1分(67.0cm)、反り6分6厘(1.7cm)
国宝
国(文化庁)所蔵


「九州国立博物館所蔵」としておりましたが誤りでした。ご指摘を受け訂正いたしました。(2016/9/5)


  • 桑名正宗、中書正宗(中書は中務の唐名)とも
  • 享保名物帳所載

    中務正宗 象嵌銘帳二尺二寸分半 代金二百枚 御物
    本田故中務殿桑名在城の時分光徳取次にて御求め、表「本多中務所持」裏に「正宗本阿弥」と象嵌に入る光徳なり、家康公へ上る、寛文中は右の代なり、水戸殿へ御伝へ故中納言殿より上る、甲府殿へ進せらる

  • 鎬造り、庵棟、反りは浅く、やや延び鋒。彫物は表裏とも棒樋を掻通す。
  • 大磨上げで先は粟尻。目釘孔1個。
  • 指裏に「正宗本阿花押」、指表に「本多中務所持」と光徳象嵌が入る。

由来  

  • 号は徳川家の家臣・本多平八郎忠勝(従五位下・中務大輔)の所持にちなむ。
    • 「中務正宗(中書正宗)」
  • 本多忠勝が桑名城主であったことにちなみ「桑名正宗」とも。

来歴  

  • 本多忠勝が桑名城主のとき、本阿弥光徳の取次で購入し、佩表の茎に象嵌銘「正宗 本阿(花押)」と入れる。このとき六千貫。

    元本多中務殿桑名在城の時分光徳取次にて御求め

    忠勝が伊勢国桑名10万石に封じられたのは関ヶ原の翌年の慶長6年(1601年)。天正18年(1590年)に上総大多喜で10万石を与えられていたため、この時5万石加増の話があった。しかし忠勝が固辞したため、次男本多忠朝に別家を立てさせ大多喜5万石の大名としたという。

  • 埋忠銘鑑」によれば、慶長11年 (1606年)2月に埋忠寿斎が象嵌を施したとあり、これは佩裏の茎の「本多中務所持」と推定される。
  • その後本多忠勝から徳川家康に献上される。

    中之御腰物
    一 正宗 本田中書
    駿府御分物帳

  • 家康はこれを水戸頼房に与える。
    本多忠勝は慶長14年(1609年)6月に嫡男忠政に家督を譲って隠居、慶長15年(1610年)10月18日に桑名で死去している。
    いっぽう水戸頼房は慶長15年(1610年)に英勝院(お梶の方)の養子となり、翌年には元服して頼房と名乗っている。慶長19年(1614年)の大坂の陣では駿府城の留守を預かっているため、この頃までに拝領したと思われる。
  • 寛文元年(1661年)8月、水戸藩2代藩主である水戸光國が頼房の遺物として家綱に献上。このころ三百枚に改められる。

    (寛文元年8月)廿三日水戸中將光圀卿襲封を謝せらる。 正則の太刀。 銀五百枚。 時服二十獻ぜられ。 故中納言頼房卿の遺物中書正宗の刀。 茶入( 筑紫肩衝)をさゝげらる。
    (徳川実紀)

  • 家綱が薨去すると、延宝8年(1680年)6月遺物として甲府綱豊(家宣)に贈られた。

    (延宝8年5月)甲府中將綱豐卿に中書正宗の御刀。 印月江筆の掛幅。

  • 宝永6年(1709年)に家宣が第6代将軍となったことで再び将軍家所蔵に戻る。
  • 享保2年(1717年)に近江守継平がこれを見、押形をとっている(継平押形)。
  • 明治17年(1884年)6月、半太刀拵えを新調して大久保一翁に贈っている。
  • その後再び大久保家から徳川家に贈られる。
  • 昭和16年(1941年)7月3日旧国宝指定。
  • 戦後に同家を出て、昭和32年(1957年)2月19日に新国宝指定。
  • 平成15年(2003年)文化庁が1億6600万円で買い上げた。