下食丸

下食丸(げじきまる)  

太刀
大和友光作

  • 平重衡所持の太刀
    • 時代住地不詳の光時にも「下食丸」の作がある。重衡佩刀との異同は不明。

由来  

  • 号の由来は不明。
  • 「下食日(げじきにち)」とは、天狗星(流星)が食を求めて地球上に落下してくるとされる日をいう。水浴することで、頭を天狗星に舐められ頭髪が抜けるという迷信があった。また、この時に食事をすると、食物の栄養が全て天狗星の精に吸い取られてしまうとされその残りを食べると災いがあるともいう。
  • 下食丸もこれと関連のある名前とみられる。


平重衡(たいらのしげひら)  

  • 平重衡は平清盛の五男。母は清盛の継室平時子。三位中将と称される。
  • 南都焼討をした人物として知られる。
  • 平氏の公達として昇進を重ね、治承3年(1179年)には23歳で左近衛権中将に進む。
  • 治承4年(1180年)5月、以仁王の挙兵が起こると重衡は甥の平維盛と共に大将軍として出陣している。
  • 同年8月に源頼朝が挙兵し、10月に富士川の戦いで平氏追討軍を破ると、後白河院と繋がる近江園城寺や関白松殿基房配流に反発する興福寺などが公然と反平氏活動を始める。
  • 清盛の命を受けた平重衡は、12月21日に園城寺を焼き払い、さらに12月25日には南都へ向かい、28日には興福寺や東大寺の堂塔伽藍一宇残さず焼き尽し、多数の僧侶達が焼死した。東大寺大仏も焼け落ちている。
    この後、重源が東大寺大勧進職となって奔走し、文治元年8月28日(1185年9月23日)には大仏の開眼供養が行われ、建久6年(1195年)には大仏殿を再建している。松永三好による東大寺焼き討ちは、これよりさらに300年後のことである。
  • のち一ノ谷の合戦で捕虜となり鎌倉へ誤送される。平氏滅亡後に焼き討ちをかけられた南都宗徒に引き渡され、木津川河畔で斬首された。