三条西実隆

三条西実隆(さんじょうにし さねたか)  

室町後期から戦国時代にかけての公家
号 逍遥院尭空、聴雪
道号 耕隠

  • 和歌、書道、香道、有職故実など、多方面に渡る貴族文化で堂上知識階級の権威となる。
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生涯  

  • 康正元年(1455年)、内大臣三条西公保の次男として生まれる。母は甘露寺房長の娘。
  • 長禄2年(1458年)に兄の実連が死去したため、家督相続者として扱われ従五位下に叙される。二日後に侍従に任官。寛正元年(1460年)には父の公保が死去したため、母方の叔父である甘露寺親長の後見を受けて家督を相続する。
  • 正室は勧修寺教秀の娘であり、そのきょうだいに後土御門天皇の典侍房子や後柏原天皇の典侍藤子(後奈良天皇国母)などがおり、天皇家と深い縁戚関係があった。
  • 文明元年(1469年)に元服と同時に右近衛権少将に進み、実隆と改名する。永正3年(1506年)に内大臣となるが在職わずか二ヶ月、任大臣大饗も開かずに致仕。永正13年(1516年)に出家する。
  • 天文6年(1537年)死去。
  • 側室はなく、すべて正妻の子がいる。長男の公順は東大寺、三男の桂陽は東福寺へ入り、家督は次男の三条西公条が継いでいる。
    孫が三条西実枝であり、子がなかったため弟子の細川幽斎に返し伝授を約束させた上で「古今伝授」を行っている。実隆から実枝までを三条西三代と呼ぶ。

文化人  

  • 室町幕府将軍の8代足利義政や11代足利義澄、周防の大内義隆や駿河の今川氏親、若狭守護武田元信等と親交があった。

和歌・古今伝授  

  • 文化人としての交流関係も多岐に亘り、飛鳥井雅親から和歌を学び一条兼良と共に和歌・古典の貴族文化を保持・発展させ、【二条派】宗祇から古今伝授を受けている。古今伝授【御所伝授】。
  • 漢文日記「実隆公記」を残したほか、源氏物語に関しては、系図として革新的な「実隆本源氏物語系図」を作った。歌集「雪玉集」を残す。

香道  

  • 実隆は聞香にも優れ、後柏原天皇から「御香所預(ごこうしょあずかり)」に任じられ、「鼻孔指南」を行った。香道の【御家流】は、実隆によって創始された。
  • また実隆の髙弟志野宗信は、足利義政から香の式を考案するよう命を受け御香所預の実隆に薫物合(たきものあわせ)の法を聞いた上で、肖柏や宗祇らと相談して定めたという。
    宗信は【志野流】香道を確立し、子の宗温、孫の省巴へと世襲した。省巴の代で断絶の危機があり、2代目宗温の高弟建部隆勝が門下の蜂谷宗悟に志野流継承を薦めたことで、香道断絶の危機を回避した。

茶道  

  • 千利休の師である武野紹鴎は、実隆に和歌を学んでいる。紹鴎は、実隆から「詠歌大概之序」の講義を受けた時に茶の湯の極意を悟ったという。

その他  

  • 能書家としても知られる。

中世に始まる新しい芸能が権威付けに堂上公家の名前を利用していた側面もあり、文献などに残らない部分でどこまでが実隆の功績なのかはよくわかっていない。


実隆本源氏物語系図  

  • 実隆以前の源氏物語系図は九条家本の流れを汲むもので、巣守三位など現存する源氏物語の中には現れない人物についての言及もしばしば見られるなど当時の標準的な本文となりつつあった青表紙本による源氏物語とはしばしば整合性の取れないものであった。
  • そのような中で三条西実隆によって整えられた「実隆本」はそれ以前の古系図とは形式と内容がいくつかの点で異なっていた。実隆本が成立して以後はわずかな例外を除いて実隆本の流れを汲むものが主流となっていった。

関連項目