ソハヤノツルギ

ソハヤノツルギ  

太刀
銘 妙純伝持 ソハヤノツルキ/ウツスナリ
二尺二寸三分(69.6cm)、反り八分五厘(2.5cm)
伝徳川家康所用
重要文化財
久能山東照宮所蔵

  • 久能山東照宮所蔵の家康の遺愛刀「ソハヤノツルギ」
  • これは無銘ながら三池典太光世の作と伝えられるもので、東照宮所蔵品では久能山の真恒と並び称される名刀である。
    元のソハヤの剣三池典太光世の作であり、このウツスナリは光世本人ではなく、初期の和泉守兼定であるともいう。ただし佐藤寒山は切り付け銘が、書体や鏨使いから室町期の物であるとし、三池典太光世の作としている。
  • 鎬造り、庵棟低く、中反り高く、身幅広く、猪首峰。
  • 鋩子は直ぐ、先小丸に返る。表裏に刀樋に添え樋をなかご中ほどまで掻き流す雉股形、先切。目釘孔2個。
Table of Contents


  • 大正4年にまとめられた「久能山東照宮宝物解題」に記載されている。

    一、三池刀 一口 白鞘羽二重袋入
    明治四十三年十一月十九日天覧
    明治四十四年四月十七日国宝指定
    鎬造直刃
     筑後國三池住三池典太元真法名光世作
     承保年間の作者大正四年より凡八百四十年前の物

    中心大磨揚 長五寸五分半 形雉子股 無銘
    目釘穴二個 表 妙紙伝持/ソハヤノツルキ 裏 ウツスナリ と切付有之

     白鞘書附表の方
    御在世御指
    無銘 三池御刀 長二尺二寸三分 表裏樋并添樋有之
    幅御鎺本にて一寸三分中程にて一寸一分半横手にて九分半
    重御鎺本にて二分半横手にて一分半反八分掛目百八十一匁

     白鞘書附裏の方
    安政五年戌午三月 御砥 本阿弥喜三二
             御鞘 内田吉重郎

    • 後半は安政5年(1858年)3月に本阿弥長識が研ぎを行った時の記録である。
    • なお「革柄蠟色塗打刀拵」も附いており、こちらも刀身と共に重要文化財指定を受けている。

      革柄蝋色鞘刀〈無銘(伝三池光世作)/裏ニ「妙純傳持ソハヤノツルキ」/表ニ「ウツスナリ」ト刻ス〉
      徳川家康公の指料である「太刀 無銘光世」に添えられた打刀拵です。 江戸時代、「太刀 無銘光世」は御神体同様に扱われ、久能山東照宮では第一の重宝でした。

由来  

  • 切りつけ銘にちなむ。
  • 裏には「妙純伝持」、裏棟寄りに「ソハヤノツルキ」、表棟寄りに「ウツスナリ」と切る。
    なお切り付け銘はあくまで清音の「ソハヤノツル」であり、濁音の「ツル」とは刻まれていない。文化財登録でも同様に清音表記される。これは切り付け銘が入れられた当時は濁音表記していなかったため。現在の表記では「ソハヤノツルギ(騒速のつるぎ/楚葉矢のつるぎ)」とするほうが誤解なく伝わるため、本サイト内では、項目名、他ページでの表記を含め濁音表記を行う。
  • 中心は雉股、雉股の始まりが目釘孔より下にあり磨上中心であることを示すが、一方で刃文の焼きだしを見ると刃区の刃角から始まっており、これは本刀が磨上ではないことを示している。この矛盾は、銘にある通り「ソハヤの剣を写したもの」であるためである。
  • この刀が写した"ソハヤノツルギ"とは、坂上田村麻呂の愛刀(ソハヤの剣)を指している。「ソハヤの剣」の項参照。

来歴  

御宿家  

  • 元は駿河の御宿家伝来。御宿家の先祖が源頼朝より拝領したともいう。
  • 御宿勘兵衛(越前守政友)は、豊臣方として大坂城に入城し、冬の陣では塙団右衛門などと功名を上げるが、翌年の大坂夏の陣で討ち死にする。
    御宿勘兵衛は、はじめ武田氏に従属していた葛山氏に属する。のち後北条氏の松田憲秀に仕えた。北条家滅亡後は結城秀康に1万石という大禄で召し抱えられるが、秀康の死後跡を継いだ松平忠直と反りが合わず退転、大坂の陣が始まると大坂城に入り、大野治房を補佐した。家康が大坂城に入城した武将名簿を見て、「浪人衆の中で武者らしい武者は、後藤又兵衛と御宿勘兵衛だけ」と語ったともいう。
  • 御宿勘兵衛の猶子であった源左衛門貞友は、その赦免を願ってか、本刀を徳川家康に献上したという。
  • また一説に武田旧臣の葛山十郎の旧蔵ともいう。
  • 葛山十郎とは、武田信玄の六男として生まれた葛山信貞のこと。葛山氏は駿河国葛山城を領した名族で、戦国期には今川氏に仕え、今川義元亡き後駿河に進出してきた武田信玄に仕えた。信玄は、その六男信貞を葛山氏の当主葛山氏元の次女おふちに嫁がせ、養子として送り込んだ。
  • 葛山信貞は葛山城には在城せず甲府にいたため、葛山城は同族で葛山家臣であった御宿友綱(左衛門次郎、監物。御宿勘兵衛の父)が城代として治めたという。
  • 御宿監物は医者でもあったといい、信玄が陣中で倒れた際には板坂法印と共に治療にあたったともいう。この御宿監物の子が御宿勘兵衛(越前守政友)である。
    御宿勘兵衛については、葛山信貞の子、葛山友綱の子など諸説ある。いずれにしろ武田旧臣で互いに関連のある家に伝わったものということである。

家康  

  • 家康に献上され、家康は本刀を愛用し幾度か陣中でも佩用したという。
  • 元和2年(1616年)家康は、その死に際して本刀を久能山に納めるよう命じている。

    社伝云、此御太刀は御在世中最御鐘愛品にて数度の御陣中はさらなり。常に御身を離し給はず、夜は御枕刀となし給ひ、終に今はの御際、遺命ありて永世の鎮護と久能山に納め給ふ。
    (久能山東照宮宝物解題)

  • 安政5年(1858年)3月に本阿弥長識本阿弥喜三二)が研ぎを行っている。

    又云、御奉納後御砥無之年々御拭のみにて御錆もなかりしか、安政年中初めて御錆少相見え御砥になり、御白鞘も其節出来、今其儘に保存せり。
    (久能山東照宮宝物解題)

    この際の記録はこのページ頭に引用している。

  • 明治43年(1910年)11月19日、明治天皇の天覧に供されている。
  • 明治44年(1911年)4月17日旧国宝に指定された。現在重要文化財指定。
  • 昭和35年(1960年)、重要無形文化財保持者(人間国宝)の刀匠宮入昭平の手により模造刀が作られ、久能山東照宮に納められた。


エピソード  

  • 徳川家康の臨終に際してのエピソードで高名な刀である。
  • それによると、元和二年4月、臨終近いことを悟った家康は「我亡からん後は、先づ駿河の久能山に葬り、一周忌を経て後大織冠の例を追うて日光山に移せ、神霊ここに留って永く国家を擁護し、子孫を守るべし」と命じた。
  • さらに、都筑久大夫景忠に命じて江戸城内で試し切りを行わせ、大坂の役後もなお不穏な動きのある西国に対し、自らの墓所にこのソハヤノツルギの切先を西方に向けて置くよう遺言したという。

    四月十六日納戸番都筑久大夫景忠をめし。常に御秘愛ありし。 三池の御刀をとり出さしめ。 町奉行彦坂九兵衞光正に授けられ。 死刑に定まりしものあらば此刀にて試みよ。もしさるものなくば試るに及ばずと命ぜらる。光正久大夫と共に刑場にゆき。 やがてかへりきて。 仰のごとく罪人をためしつるに。 心地よく土壇まで切込しと申上れば。 枕刀にかへ置とのたまひ。 二振三振打ふり給ひ。 劍威もて子孫の末までも鎭護せんと宣ひ。 榊原内記清久に。 のちに久能山に收むべしと仰付らる。
    (徳川実記)

    御奇瑞記に曰く三池御腰物の事御在世中不被為離尊身御指料に御座候薨御二日前四月十五日都筑久大夫御前へ被為召右の御腰物久敷御手心御覧不被遊候間今日科人を試し候様にと被仰付久大夫彼御腰物を持御次の間迄罷出候へば又御呼返被遊罪の極り候者を能吟味致し候様にと御意被遊候久大夫早速試し候て御腰物持参御前へ罷出候へば切れは如何と御尋に久大夫申上候は乍恐の剣と申にて可有御座奉存候大切の御腰物に御座候間随分手心は候へども手に少も覚無御座土壇迄入れ候故砂引御座候と申上候へば御喜悦被遊即御手に被為取二三度御振り被遊比御腰物にて国家永久の御守神と可遊御意有之其儘御鞘へ御納め御手元に被為置薨御被遊候事

    • 罪が極まった者を吟味して試し切りを行わせとあるが、土壇と書かれているように罪人の死体を使っている。大切な刀なので手心は加えたがそれでも手応えなく土壇までめり込んだという。
  • また「明良濱範続編」によれば、生胴で試したと伝える

    御宿氏本姓葛山也駿河今川家の属家に二十一家あり云々御宿越前守此家に伝来の名剣ありそばえの剣(ソハヤの剣)とも亦御池とも称此刀後に仔細ありて神君に献じ奉る甚御賞翫ありけり元和二年御他界の日御池の御腰物にて生胴をためし其儘血を拭わずして御枕元に指置き神霊を是に止められ永く国家を守らせ給はんとの御事なり云々

    • こちらでは生胴を用いた上で、あえて血を拭わずに自らの神霊を止めたという。徳川家存続に掛けた家康の執念が伝わってくる。
  • 家康の死後まもない元和2年(1616年)5月、久能山にあった久能城を廃し東照宮(久能山東照宮)を着工。元和3年(1617年)1月に建立し久能山東照社創建。現在に至る。
    久能山は、飛鳥時代に久能忠仁が建立したお堂に始まるという。のち行基が来山し「久能寺」と号したという。久能寺は室町時代初期の嘉禄頃に山火事により焼失する。永禄11年(1568年)に武田信玄が駿河に侵攻、久能寺を静岡市清水区(現、鉄舟寺)に移すと、この久能山に城を築いた。元亀3年(1572年)に西上作戦を開始したために武田と織田徳川は手切れとなる。信玄の死後、家康は三河・遠江の失地回復に努め、天正10年(1582年)に織田徳川連合軍による武田攻めの際に駿河領を侵攻し、この久能城も落城する。しかし天正18年(1590年)の家康の江戸移封に伴い、久能山を含む駿河は中村一氏の所領となる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、駿河は再び家康のものとなり、榊原清政(康政の兄)を城代として入れている。この榊原家は家康薨去の際に祭祀を行っており、久能山東照宮となった後も交代寄合表御礼衆の榊原家として、代々久能山の管理を任されている。
  • なお「東照宮」は1645年(正保2年)に後光明天皇から宮号の宣下を受けて称することになった寺号で、それ以前は「東照社」と呼ばれていた。






「妙純伝持」  

  • 本刀の銘に切られている「妙純伝持」の妙純とは、美濃守護代5代である斎藤利国入道妙純を指すのではないかとの指摘がある。

    銘 妙純伝持 ソハヤノツルギ/ウツスナリ

斎藤利国入道妙純  

  • 斎藤利国入道妙純は美濃守護代斎藤利永の子。通称は新四郎。諱は利国で、妙純は入道名である。右馬丞と称した。
  • 叔父にあたる斎藤妙椿の養子となり、斎藤氏持是院家2代目当主となった。
  • 従三位権大僧都
  • 斎藤氏惣領家当主で守護代の異母兄利藤と争いとなり、利藤は近江の六角氏のもとに亡命する。のち利藤は美濃に戻るが、美濃国内の政治の実権は妙純が握った。
  • 延徳3年(1491年)4月には娘を朝倉貞景(9代)の元へ嫁がせており、朝倉孝景(10代)を生んでいる。
  • 土岐家の家督争いである船田合戦で近隣の近江・越前・尾張も巻き込んでの争乱となるが、妙純の推戴した土岐政房に家督と守護職を譲り、戦乱は一旦終結する。その後妙純は京極高清の要請で近江の六角高頼討伐に向かうが、撤退途中に土一揆が蜂起し不意をつかれた妙純は嫡男利親以下1000余名と共に戦死してしまう。
  • その後持是院家は土岐守護代とも対立し衰退する。さらに後、土岐家では再びお家騒動が起こり、斎藤道三の台頭を許すことになる。
  • このソハヤノツルギは、甲斐武田家17代武田信縄または18代武田信虎に対し、同盟のカタとして贈られたものではないかということである。
    その後、駿河の御宿家に伝来し、家康に献上されたとすれば繋がりに無理はない。

持是院家(じぜいんけ)  

  • 高名な斎藤妙椿を初代とする美濃斎藤氏の家系。
  • 斎藤妙椿は、美濃守護代斎藤宗円の子で美濃守護代3代斎藤利永の弟にあたる。幼少時から出家したため妙椿の実名は不明で、幼い頃修行した善恵寺に子院となる持是院(じぜいん)を構えたため、「持是院妙椿」と呼ばれた。
  • 美濃守護土岐成頼の被官ではあるが、応仁の乱で妙椿は西軍に加わり美濃国内の荘園を横領、反対勢力を駆逐して近江・越前・尾張へ進出、成頼の被官でありながら事実上美濃の支配者となった。後に室町幕府奉公衆となり、官位も主君である土岐成頼の従五位下を超えて従三位権大僧都に昇っている。
  • 美濃守護代斎藤氏の惣領家に対し、妙椿から分かれた家系を持是院家と言う。