にっかり青江

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にっかり青江(にっかりあおえ)  

大脇差
大磨上無銘
金象嵌銘 羽柴五郎左衛門尉長
1尺9寸9分(長さ60.3cm、反り1.2cm、先幅2.6cm)
重要美術品
丸亀市立資料館所蔵

  • 珥加理(にっかり)
  • 備中青江派作の大脇差
  • 元は2尺5寸の太刀だったが、後に2尺へと磨りあげられている。
  • 大磨上のため、金象嵌の所持銘が「羽柴五郎左衛門尉長」で切れている。これは羽柴五郎左衛門尉長秀(丹羽長秀)か、その子である羽柴五郎左衛門尉長重(丹羽長重)であるといわれている。
  • 享保名物帳所載

    ニツカリ青江 磨上長一尺九寸九分 京極若狭守殿
    昔江州の中嶋修理太夫と云ふ者あり初め八幡山辺を領す、化物有りと云ふ、夜に入て獨り行く女幼き子を抱き来る、石灯籠あり其許にて見ればにつかりにつかりと笑ひ子に向て殿様に抱かれ奉れと云ふ子歩み来る即ち之を切る、女また吾行て抱れんとて来るまた切る、次の日山中を狩て見れど外に怪しきこともなし、古く苔むしたる石塔二つ有り二つとも首と覚しき所より切落して有り其後化生も出ず何事もなしと云、表裏樋忠表に羽柴五郎左衛門とまて有り先切る定て長秀なるべし

  • 鎬造り、大切先、目釘孔3個
  • 金梨子地四つ目結紋散糸巻の太刀拵が附く。鞘には五三桐散と(隅立)四つ結紋が金蒔絵で入る。

由来  

  • 領内に化物が出るという噂を耳にし現地へ赴いてみると、夜中にも関わらず子供を抱いた怪しげな女が立っている。
  • お武家様に抱いてほしいと懇願し、子供が近寄ってきたためそれを切捨て、さらに「にっかり」と笑う女の幽霊を切り捨てたという。
  • 翌朝その場所を確認をしてみると石灯籠が真っ二つになっていたという伝説による。
  • なお伝承により石灯籠を切った人物が異なる。
    1. 近江国蒲生郡八幡住の中島修理太夫・九理(久得)太夫兄弟であるとするもの(享保名物帳
    2. 近江二万石浅野長政の家臣某の話で、甲賀から伊勢へ鈴鹿越をしたときのものとするもの(常山紀談)
    3. 六角義賢に十番備えの頭として仕えた駒(狛)丹後守とするもの(京極家家伝)

来歴  

  • のち柴田勝家に所有が移り、子の柴田勝敏に譲られた。
    養子とも。柴田勝久とも。勝敏の子、柴田勝春(柴田善右衛門中務)は立花宗茂に仕えた。
  • 天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家は破れ、柴田勝敏は逃走するも丹羽長秀に捕縛され近江佐和山で処刑された。
  • にっかり青江は、丹羽長秀が所持し、茎の「羽柴五郎左衛門尉長□」銘を入れている。
    丹羽長秀は、清州会議で三法師を支持し、その後天正11年(1583年)の賤ヶ岳の合戦でも秀吉に味方する。この功により信長に与えられていた若狭一国に加えて、越前・加賀二郡を与えられ123万石の大大名となっている。しかし天正13年(1585年)4月16日、胃癌のために死去。
     跡目は長男の丹羽長重が継ぐが、佐々成政の越中征伐に従軍した際に成政に内応したとの嫌疑をかけられて越前・加賀を召し上げられ若狭15万石に減封される。さらに九州征伐でも家臣の狼藉を理由に若狭を召し上げとなり、加賀松任4万石にまで落ちる。その後小田原征伐の功により加賀小松12万石に加増転封となり、関が原を迎えた。恐らく数度の減封となった際に献上したのではないかと思われる。
  • その後豊臣秀吉に献上された。

    長重之ヲ豊臣秀吉ニ献ズ、秀吉宝愛シ名ヅケテ珥加理ト号ス
    (京極家重代珥加理刀之記録)

  • 秀吉は本刀を一之箱にいれ秘蔵している。

    一之箱 につかり刀

  • 磨上は秀吉と思われ、埋忠寿斎本には次のような記載があり秀頼の代まで豊臣家にあったことがわかる。

    御物にっかり、長さ二尺、秀頼様ヨリ上リ光徳より参候而寿斎拵二度仕申し候 作あおへ いんす金そうかん也

    • 秀頼様より献上され、光徳より参り候て(埋忠)寿斎拵二度仕り申し候。「いんす金(明輸入の印子金)」を使った金象嵌なり。
  • のち、豊臣秀頼から京極高次に与えられ、継嗣京極忠高の養子京極高和に始まる讃岐丸亀藩京極家に伝来した。
    1. 京極家初代:京極高次[近江大津→若狭小浜]
    2. 京極家2代:京極忠高[若狭小浜→出雲松江]
    3. 京極家3代:京極高和[播磨龍野→讃岐丸亀] 末期養子で減封、のち転封。丸亀藩初代藩主
  • 昭和4年(1929年)3月の日本名宝展覧会では京極高修子爵所持。

    珥加理貞次大脇指 子爵京極高修家

  • 昭和15年(1940年)9月27日に重要美術品指定。京極高修子爵所持。
  • 太平洋戦争後に流出する。
  • しかし、平成9年(1997年)に丸亀市が購入し、現在は丸亀市立資料館所蔵。


京極家自慢の名刀  

  • 丸亀藩主である京極家では、この秀頼より拝領の「にっかり青江」と家康より拝領の粟田口吉光の短刀、さらに豊臣秀吉より拝領の短刀「京極正宗」の3つをもっとも大切に秘蔵したという。
    他に長光太刀、守家太刀、畠田真守太刀景光太刀来国光刀、左弘行刀、元重刀、青江直次刀なども所蔵。
  • 中でも由緒ある「にっかり青江」は、代々殿様が殿中差しとして使用したといわれ、一尺四寸が定寸といわれる小さ刀としては異例の長さであった。そのためか京極家には、享保年中に「にっかり青江」を八代将軍吉宗の台覧に供したという記録も残るという。

狂歌  

  • また、次のような狂歌も残る

    京極にすぎたるものが三つある にっかり茶壺に多賀越中

「にっかり」
本刀「にっかり青江」のこと。
「茶壺」
茶壺とは高名な野々村仁清作の茶壺であり、京極家と仁清との関わりは丸亀藩京極家初代高和の時に始まっている。この結果、京極家には他の大名家がうらやむような茶器の名品が数多くあり、現在は国宝指定されているものもある。
  • 色絵藤花文茶壺(国宝、現在MOA美術館所蔵)
  • 色絵月梅図茶壺(重文、東京国立博物館所蔵)
  • 色絵吉野山茶壺(重文、福岡市美術館所蔵)
「多賀越中」
多賀越中は佐々木京極氏が近江にある頃から仕えた重臣で、幕藩時代を通じ代々多賀越中某と名乗り、江戸時代は丸亀藩京極家の家老職を務めた。




にっかり(水野成之所持)  

脇差
水野成之所持

  • 旗本奴「白柄組」の首領、水野十郎左衛門(水野成之(みずのなりゆき))の脇差。

由来  

  • 成之の父、旗本水野成貞がかつて女の首を撥ねたところ、女の首が下に落ちてからにっかり笑ったため異名がついたという。

来歴  

  • 明暦3年(1657年)7月18日、成之は町奴の大物幡随院(ばんずいいん)長兵衛を殺害した。この時に「にっかり」を用いたとする。
  • 当初成之はこの件に関してお咎めなしであったが、行跡怠慢で寛文4年(1664年)3月26日に母正徳院の実家蜂須賀家にお預けとなった。
  • 翌27日に評定所へ召喚されたところ、月代を剃らず着流しの伊達姿で出頭し、あまりにも不敬不遜であるとして即日に切腹となった。享年35。
    反骨心の強さから切腹の際ですら正式な作法に従わず、膝に刀を突き刺して切れ味を確かめてから腹を切って果てたという。
  • 水野成之の祖父は、高名な備後福山藩主水野勝成で、父の成貞はその三男。成貞は家光の小姓となり寛永2年には三千石を賜り寄合(旗本寄合席)となる。

水野勝成  

  • 水野成之の祖父水野勝成は、もともと三河国刈谷城主水野氏の出身。姉弟には加藤清正の正室となった、かな(清浄院)もいる。
                   加藤清正
                    ├────八十姫
           ┌水野忠守  ┌かな     │
    水野忠政   ├水野忠重──┴水野勝成  徳川頼宣(紀州徳川家)
      ├────┤      ┌松平康元
      │    │久松俊勝  ├松平康俊
      │    │  ├───┴松平定勝(久松松平家)
      │    └於大の方
    於富の方      ├────徳川家康(徳川宗家)
      │  ┌──松平広忠
      │  │    
      │  │  松平政忠
      │  │   ├─────松平康忠(長沢松平家、近江膳所藩)
      ├─────碓井姫
    松平清康 │   ├────┬酒井家次──酒井忠勝(酒井左衛門尉家、出羽庄内藩)
      ├──┘  酒井忠次  └本多康俊(伊奈本多氏)
    青木貞景娘
    祖父水野忠政の正室は於富の方(源応尼、華陽院)で、美人であったとされ、のち松平清康(家康祖父)に嫁いで碓井姫や松平信康を生んでいる。この碓井姫は松平政忠に嫁ぎ松平康忠を産み、後に酒井忠次に嫁ぎ酒井家次や本多康俊らを産んでいる。
  • 勝成は一度出奔するが、秀吉薨去後に豊臣政権が混乱し始めると徳川家に戻る。関ヶ原の前に父忠重が殺されたため水野家の家督を継ぎ、東軍武将となって大垣城を攻めた。この時大垣城守将の福原長堯から正宗を分捕っており、のちに勝成の官名である日向守から「名物 日向正宗」と名付けられている。(現国宝、三井記念美術館所蔵)
  • 大坂の役では「戦功第二」とされ、3万石加増で大和郡山に転封される。さらに元和5年(1619年)には福島正則の改易に伴い福山10万石を与えられる。


にっかり長光  

  • にっかり青江とよく似たエピソードを持つ「にっかり長光」という刀も存在する。
  • これは備前長船長光の作で、秀吉の召し上げとなるがその後行方不明。