織田有楽斎


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 織田有楽斎(おだうらくさい)

安土桃山時代から江戸時代初期の大名・茶人
織田信長の弟
従四位下、侍従
号 有楽斎如庵

生涯  

  • 織田信秀の十一男。信長の弟にあたる。
  • 天正2年(1574年)尾張国知多郡を与えられ、信長の長男織田信忠の旗下に組み入れられている。
  • 天正9年(1581年)の京都御馬揃えでは信忠・信雄・信包・信孝・津田信澄の後に続いている。

本能寺の変  

  • 本能寺の変の際は、信忠とともに二条御所にあったが、有楽斎は城を脱出し、近江安土を経て岐阜へ逃れた。
  • その後は甥の織田信雄に仕え、検地奉行などを務める。小牧・長久手の戦いでは信雄方として徳川家康に助力している。
  • 戦後家康と羽柴秀吉の講和に際して折衝役を務めている。また、佐々成政と秀吉の間を斡旋したともいう。天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜されている。
  • 天正18年(1590年)の信雄改易後は、秀吉の御伽衆として摂津国島下郡味舌2,000石を領した。この頃、剃髪して有楽斎と称す。姪の淀殿とは庇護者として深い関係にあり、鶴松出産の際も立ち会っている。

関ヶ原  

  • 家康と前田利家が対立した際には徳川邸に駆けつけ警護している。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、長男長孝とともに総勢450の兵を率いて参戦する。
  • また長男長孝が戸田重政、内記親子の首を取ると有楽斎も石田家臣の蒲生頼郷を討ち取るなどの戦功を挙げている。
  • 戦後、有楽斎は大和国内で3万2,000石、長男長孝は美濃野村藩に1万石を与えられた。
  • その後も豊臣家に出仕を続け、淀殿を補佐した。大坂冬の陣の際にも大坂城にあり、大野治長らとともに穏健派として豊臣家を支える中心的な役割を担った。
  • 大坂夏の陣を前にして再戦の機運が高まる中、家康・秀忠に対し「誰も自分の下知を聞かず、もはや城内にいても無意味」と許可を得て豊臣家から離れた。

隠棲  

  • 大坂退去後は京都に隠棲、茶道に専念し趣味に生きた。
  • 元和7年(1621年)12月13日京都で死去。享年76。

子孫  

      【美濃野村藩】
織田長益─┬長孝─┬長則(無嗣断絶)
     │   ├長政(織部)
     │   └長光(加賀八家村井長次の養子、村井長家)
     │
     ├頼長──長好(織田三五郎)
     ├俊長──長次─┬則長
     │       └恒真
     │
     │【大和戒重藩(芝村藩)】
     ├長政(荘蔵・丹後守)─┬長定─┬長明
     │           │   └長清
     │           └政時──典清
     │
     │【大和柳本藩】
     ├尚長──長種
     └宥閑

庶長子:長孝  

  • 庶長子の長孝は、関が原に東軍として参加して戦功を挙げ、美濃野村藩1万石を与えられて大名に取り立てられている。この長孝の次男が前田家重臣である加賀八家の村井長次の養子となり、3代当主となっている。

嫡子:頼長  

  • 嫡子の頼長(生母は平手政秀の娘)は関ヶ原の戦い後も父とともに豊臣秀頼に仕えた。また、父の創始した茶道有楽流を継いだ。しかし長孝の子・長則が嗣子なくして死去したため、無嗣断絶により廃藩となっている。

四男長政と五男尚長  

  • 四男長政(荘蔵、従五位下・丹後守)と五男尚長は元和元年(1615年)に父が隠棲した際に、有楽斎が大和国内に領する3万石を分割して1万石ずつを与えられた。四男長政が戒重藩(後の芝村藩)、五男尚長が柳本藩の藩祖であり、いずれも1万石の外様大名として明治まで続いた。

茶人  

  • 千利休に茶道を学び、利休十哲の一人にも数えられる。
  • 後には自ら茶道有楽流を創始した。また、京都建仁寺の正伝院を再興し、ここに立てた茶室如庵は現在、国宝に指定されている。
如庵
じょあん。元和4年(1618年)、有楽斎により建仁寺の塔頭正伝院が再興された際に建造された茶室。正伝院は明治6年(1873年)に永源庵跡地に移転したが、その際に、如庵は祇園町の有志に払い下げられた。明治28年(1895年)には「有楽苑」となっている。
明治41年(1908年)に三井家に売却され、東京の三井本邸に移築されている。三井の重役で著名な茶人である益田孝がこれを愛用した。昭和11年(1936年)に旧国宝指定。昭和13年(1938年)に三井高棟によって神奈川県中郡大磯の別荘に移築された。昭和26年(1951年)6月9日に新国宝指定。
昭和47年(1972年)に現所有者である名古屋鉄道によって購入され、堀口捨己の指揮の下、愛知県犬山市の有楽苑に移築された。名称は、有楽斎の洗礼名「Joan(ジョアン)」にちなむという。なお書院も重要文化財に指定されている。
日本庭園・有楽苑(うらくえん) | 国宝茶室・如庵(じょあん) | 公式サイト
なお現在正伝院は「正伝永源院」という名称になっている。これは、明治6年(1873年)に永源庵が廃寺となり永源の名が消えるのを惜しんだ侯爵細川護久により、「正伝永源院」と改められたことによる。
正伝永源院の歴史 | 縁起 -発祥と歴史- | 臨済宗大本山建仁寺塔頭 正伝永源院
元庵
げんあん。有楽斎が大坂天満橋(天満川崎、旧西成郡川崎村。現在は大阪市北区天満1丁目~4丁目)に設けた茶室。
家康没後の元和3年(1617年)4月17日に大坂藩主であった松平忠明により同地に東照社が勧請され、のち「川崎東照宮(川崎御宮)」となっている。妙心寺派建仁寺搭頭九昌院の僧三江を招いて別当に任じ、九昌院建国寺とも号した。

元和年中松平下総守匡清(清匡、松平忠明の初名)侯創建したまひ、三江和尚寺務し、九昌院建国寺と号し、京師建仁寺に属す

有楽斎三井花の井・菊の井・梅の井の名泉みな九昌院のほとりにあり。かつて織田有楽好みて掘らしめたりといふ

建仁寺九昌院(久昌院)は、奥平信昌が建仁寺295世の三江紹益を開基に迎えて創建した奥平家の菩提寺。当初は慶長19年10月没の嫡男家昌の菩提を弔うためであったが、信昌自身が翌慶長20年3月に没したため、家昌嫡男の忠昌(=信昌孫)がその遺志を継いで建立した。寺号は信昌の院号(久昌院殿)にちなむ。
 なお三江紹益は、のち北政所ねねが秀吉の菩提を弔うために建立した高台寺の中興開山となっている。さらに北政所の実兄である木下家定の七男が三江紹益のもとで出家し、周南紹叔となっている。寛永7年(1630年)に三江が久昌院に入ると、紹叔が高台寺2世となった。のち紹叔は、父家定の創建した建仁寺境内塔頭常光院の住持となっている。

十八圍之圖外ニ大阪九昌院圍之圖一枚. [19] - 国立国会図書館デジタルコレクション
東照宮-川崎御宮 :おおさかeコレクション
東照宮-権現まつり :おおさかeコレクション
のち茶室元庵は塔頭の九昌院に移されたが、火災により失われた。九昌院は安永9年(1780年)に建国寺と名を変えている。川崎東照宮は、大塩平八郎の乱で焼けるが再興される。
川崎東照宮北隣には、大坂町奉行組与力の大塩平八郎の役宅、その西隣には養子とした格之助の生家である西田家があった。乱の際、大塩は自宅に火をかけた後、難波橋を南下して船場へとなだれ込み豪商宅を襲撃した。乱後、両家跡地は火除地(梅林)となっている。大塩が自宅に開いた私塾「洗心洞」跡が残る。

戊辰戦争時に長州藩の陣が置かれ、明治維新後には造幣局が置かれることとなり、明治6年(1873年)に廃絶した。造幣局内には有楽斎沓脱石が残されている。

東照宮別当職なる建国寺の茶室如庵の席に用ひしものなり。其当時家康公もしばしば此茶室に入らせられ、沓脱石幾度となく踏まれしものなり。元和三年松平下総守忠明大坂に邸地を賜られしは、則ち此有楽斎の旧邸にして、忠明は家康公の孫に当れるをもって、家康公開運の地及縁故ある有楽斎の旧邸なれば、ここに東照宮の社を建てられ、其の頃より此沓脱石を茶室の傍に囲ひ、諸人の踏まさるやう保存せしを今に伝へぬ。

大阪市:46.川崎東照宮(かわさきとうしょうぐう)跡 (…>文化・スポーツ・生涯学習>生涯学習)
この時、東照宮本地堂「瑠璃殿」(現・東照閣仏舎利殿)とその本地仏である徳川家康ゆかりの厄除薬師如来坐像(現・三十三観音堂本尊)は、東光院(萩の寺、大阪府豊中市)へと移されている。また東照宮の石灯籠・鳳輦庫は近隣の大阪天満宮(大阪市北区天神橋)へと移されている。現在、川崎東照宮の跡地は造幣局の他、大阪市立滝川小学校となっている。滝川小学校正門前に川崎東照宮跡の碑が残る。
滝川小学校の東側半分ほどが川崎東照宮跡、西側半分ほどが建国寺跡。

旧川崎東照宮本地堂 豊中市
川崎東照宮の承継と道了大権現の再興|由緒と歴史|東光院 萩の寺 【大阪・豊中】 納骨・永代供養・永代水子供養
有楽斎が設けた茶室は、昭和47年(1972年)に堀口捨己により古図に基づき愛知県犬山市の有楽苑に復元されている。なおこの茶室も元は如庵と呼ばれていたが、正伝院にあった茶室よりも古いということから「元庵」と名付けられた。
春草廬
しゅんそうろ。元は伏見城内にあったもので、宇治の茶商上林三入に与えられ、京都宇治の三室戸寺金蔵院に寄贈された。このときまでは書院に付属する茶室(九窓亭)であったが、のち原三渓が三渓園に移築された際に分離し、茶室を春草廬、書院を月華殿と名付けた。春草廬および月華殿は、それぞれ昭和6年(1931年)12月14日に旧国宝重要文化財)に指定されている。
横浜 三溪園 - Yokohama Sankeien Garden - | 春草廬
春草廬 文化遺産オンライン
大井戸「有楽」
「有楽井戸」。大井戸茶碗の五指に入ると評される。号は有楽斎所持にちなむ。紀伊国屋文左衛門~(諸家)~仙波太郎左衛門~伊集院兼常~藤田家~松永家。重要美術品東京国立博物館所蔵(松永安左エ門氏寄贈)

逸話  

本能寺脱出  

  • 本能寺の変の際に、信忠に自害を勧めたのは有楽斎だとする説がある。「義残後覚」「明良洪範」などの後世の書では、有楽斎の逃亡劇は「織田の源五は人ではないよ お腹召せ召せ 召させておいて われは安土へ逃げるは源五 むつき二日に大水出て おた(織田)の原なる名を流す」と京の民衆たちに皮肉られたという。
  • なお長益の他にも前田玄以、水野忠重(当時信忠軍団か)、山内康豊(山内一豊の同母弟。信忠に仕えていた)、鎌田新介(信忠の介錯役)が二条御所から脱出している。

由来  

  • ツバキの一品種「太郎冠者」は別名「有楽」ともいうが、この名は長益(有楽斎)がこの品種を愛したことによる。学名もCamellia urakuである。
  • 東京都千代田区の有楽町(ゆうらくちょう)という町名は、長益の号「有楽斎」に由来し、茶人としても名をはせた有楽斎は関ヶ原の戦いのあと、徳川方に属し、数寄屋橋御門の周辺に屋敷を拝領し、その屋敷跡が有楽原と呼ばれていたことから、明治時代に「有楽町」と名付けられたとの説が流布している。
    しかしこれは、「有楽斎」の「有楽」と有楽町の「有楽」(ゆうらく)の文字が同一なことから生まれた俗説であり、有楽町は明治初期に有楽町、永楽町の二つの町名が新たに命名されたもので織田有楽斎とは関係ないとする説がある。
  • 数寄屋橋も有楽斎が拝領した土地に数寄屋を多く建てたことからの町名とも言われる。
  • かつて大阪に有楽斎が居住したといわれる場所に有楽町(うらくちょう)が存在した。現在の大阪市西成区天下茶屋3丁目の一部と岸里東1丁目の一部で、天下茶屋駅と聖天坂駅の中間に位置する区域は、有楽町が正式な住居表示上の町名であった。


関連項目  


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