結城秀康

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結城秀康(ゆうきひでやす)  

戦国期の武将
徳川家康の次男
越前国北ノ庄藩(福井藩)初代藩主
越前松平家の開祖
従五位下 侍従 三河守、従四位下 左近衛権少将、従三位 権中納言、正三位
越前卿、越前黄門、越前宰相、結城少将

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生まれ  

  • 母は家康の側室の於万の方(築山殿の奥女中)で、正室築山殿の勘気を恐れた家康により、浜松城下で生まれたという。
  • 幼名於義伊(於義丸・義伊丸とも)
  • 家康に疎まれ3歳になるまで対面を許さなかった。のち家康長男の兄松平信康による取り成しにより、ようやく対面を果たしたという。

秀吉養子  

  • 天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの後、講和条件として秀吉のもとへ養子として差し出される。このとき、家康から「童子切安綱」と采配とを餞別として授けられたという。
    天正7年に松平信康は家康の命により切腹しており、年長の男子であったため。これにより松平家の後継者は異母弟の秀忠となる。
  • 天正13年ごろ元服し、10月4日に侍従に任官される。元服時に、家康と秀吉、双方の親から一字ずつとり「羽柴秀康」を名乗ったと見られている。

羽柴秀康  

  • 我が子のなかった秀吉は、覇気のある爽やかな青年に育った秀康を愛し、九州征伐や小田原合戦、朝鮮出兵などにも参加させる。

結城家の養子  

  • 天正16年(1588年)4月までに三河守・左近衛権少将に任じられる。
  • しかし天正17年(1589年)5月に秀吉に世継ぎ鶴松が誕生したこともあり、天正18年(1590年)7月に下総国結城の大名結城晴朝の姪と婚姻して養子となり、翌年結城氏の家督と結城領11万1千石を継がせた。
    結城晴朝の妹が江戸重通に嫁いでおり、その娘が鶴姫。江戸氏は小田原征伐に参陣せず、結果常陸54万石が佐竹氏支配となり江戸氏は妻の縁を頼って結城氏の許に落ち延びた。
    結城晴朝には跡継ぎがなく、水谷勝俊(水谷氏には「源来国次」が伝来)を通じて秀吉に養子の紹介を受け、(羽柴)秀康が候補に上がった。そこで結城晴朝は、姪にあたる江戸重通の娘鶴姫を自らの養女として秀康に娶らせ、結城氏を継がしめた。
    なお秀康の死後、鶴姫は「古今伝授の太刀」のエピソードで登場する烏丸光広に嫁いでいる。
  • 以降秀康は「結城秀康」を名乗ることになる。※一時的に「秀朝」を名乗るが、半年ほどで秀康に戻したことが発給文書からわかっている。
  • このとき、結城晴朝から天下三名槍の一つ「御手杵」を譲られたという。(御手杵はこののち上州前橋松平家に伝来する)

羽柴結城少将  

  • 羽柴姓を贈られ、官位から「羽柴結城少将」と呼ばれた。
  • その後、慶長2年(1597年)に参議(宰相)。三河守は慶長(1600年)5年9月ごろまで使用。
  • 石田三成と親交があり、三成失脚時に三成の領地である佐和山まで護送した礼として、五郎正宗を譲り受けた。この名刀は「石田正宗」と称され、秀康の末裔にあたる津山松平家で代々伝わった。

越前移封  

  • 慶長5年(1600年)、結城秀康は上杉景勝征伐に参戦し、三成挙兵後は留守居として対上杉の守りを務める。関ヶ原戦後、同年年末までに一躍越前北庄67万石に加増移封され、下総国結城郡とあわせ75万石となる。越前宰相。
    50万石を超える加封は徳川一門を含めた諸侯の中で秀康が唯一で、当時加賀前田氏に継ぐ大領となった。外様最大の前田氏に備える形で越前に秀康、若狭には京極、彦根に井伊を配置している。

家康の将軍宣下と秀忠への承継  

  • 慶長8年(1603年)2月、家康は右大臣、征夷大将軍を宣下され、征夷大将軍となる。同時に源氏長者を宣下さる。
  • 将軍位を得て正式に幕府を開いた家康は、徳川氏による将軍職世襲を確実にするため秀忠を右近衛大将(次期将軍候補)にするよう朝廷に奏上し、同慶長8年4月16日に任命されている。いっぽうの秀康は、慶長8年(1603年)1月に参議を辞し2月には従三位となっている。
  • 2年後の慶長10年(1605年)4月7日、家康は将軍職辞任と後任に秀忠の推挙を朝廷に奏上し、4月16日、秀忠は第2代将軍に任じられた。以降家康は大御所を称す。秀康は同年7月に権中納言に任ぜられる。

薨去  

  • 慶長11年(1606年)には江戸城普請手伝いを命じられ、翌慶長12年には駿府城改築の助役を命じられている。正三位に叙任される。
  • 慶長12年(1607年)3月1日、病が重くなり京都を発って帰国するが、閏4月8日に34歳で薨去。梅毒が原因とされる。
  • 越前松平家は、嫡男の松平忠直が継ぐ。越前松平家は御三家などの序列とは別格の制外の家とされた。
  • 忠直が「不行跡」を理由に配流処分となり、弟にあたる松平忠昌が越前福井藩主となった。
  • 結城家の家督は、遺言により慶長12年(1607年)秀康五男の直基が継いでいる。寛永3年(1626年)からは御一門が「松平氏」に改称したため結城の名字を称する大名はなくなった。しかし直基の子孫は家紋は結城家の家紋(結城巴、太閤桐)を使い続けた。
  • その死後、遺物として左文字の刀、貞宗の刀を献上している。

    卿の遺物として大御所に左文字の刀。京極黄門定家卿筆の古今集をさゝげられ。御所に貞宗の刀。五條三位入道筆の伊勢物語を奉られしとぞ。

系譜  

             本多成重の娘
長寿院奈和          │
├──────松平直良──松平直明───松平直常【明石藩2代】
│ 【木本→勝山→大野藩】【大野→明石藩】
│
│ 徳川秀忠──勝姫
│ 清涼院岡山  ├──┬松平光長【越後高田藩】
│  ├─┬─松平忠直 ├永見長頼──松平綱国
│  │ │      ├亀姫(高松宮好仁親王妃)
│  │ │      ├鶴姫(九条道房室)
│  │ │      └閑(小栗正矩室)
│  │ │
│  │ └─松平忠昌  【越前松岡藩初代】
│  │     ├──┬松平昌勝────松平綱昌【福井藩6代】
│  │   広橋兼賢娘├松平光通【福井藩4代】
│  │        └松平昌親【福井藩5代・7代】
│  │  
結城秀康   【信濃松本→出雲松江藩初代】
│  ├───松平直政─┬松平綱隆【出雲松江藩2代】
│ 月照院       ├松平近栄【出雲広瀬藩】
│           ├松平隆政【出雲母里藩初代】
│           └松平直丘【出雲母里藩2代】
│
│    (結城家)   【越後村上→姫路→豊後日田→山形→白河藩】
├──────松平直基──松平直矩──┬松平基知【陸奥白河藩2代】
品量院                │【美作津山藩初代】
                   ├松平長矩(松平宣富)──松平浅五郎━━松平長煕
                   └松平知清──松平長煕


※越前松平家:結城秀康→松平忠直→松平光長→松平忠昌→松平光通
※結城家:結城秀康→結城直基(松平)

子:松平忠直  

越前北ノ庄→配流
  • 母は清涼院岡山。
  • 慶長12年(1607年)、結城秀康が死ぬと越前北ノ庄を継ぐ。
  • しかし二度も騒動が起きたため、豊後に配流となっている。
  • 家督は子の松平光長が継ぐが、幼少を理由に越後高田藩へと移っている。越前北ノ庄へは同母弟(光長叔父)の松平忠昌が入った。

子:松平忠昌  

→越前福井藩
  • はじめ上総姉ヶ崎藩1万石、大坂の役ののち常陸下妻藩3万石へ加増移封。翌年の元和2年(1616年)には松平忠輝改易の跡、信濃松代藩12万石へ、元和4年(1618年)には越後高田藩25万石へと加増移封された。
  • 同母兄の忠直が配流された後、越前北ノ庄は忠昌が継ぐこととなった。この家系は、途中減封されながらも明治維新まで存続した。

子:松平直政  

→出雲松江藩
  • 生母は月照院(三谷氏)。
  • 大坂の役では真田幸村を討ち取る功をあげ、兄忠直より1万石を与えられる。のち幕府より上総姉ヶ崎藩1万石を与えられ大名と鳴る。
  • 異母兄の忠直の配流後、寛永元年(1624年)6月、越前大野藩5万石に加増移封される。寛永10年(1633年)には信濃松本7万石へ加増移封、寛永15年(1638年)2月11日、出雲松江18万6千石(及び隠岐1万4千石を代理統治)へ加増移封され、国持大名となっている。
  • この家系は明治維新まで存続した。
  • なおこの直政の直系子孫に茶人大名松平不昧がいる。
    結城秀康─┬松平忠直──松平光長
         ├松平直政
         │  ├───松平綱隆─┬松平綱近 
         │久姫慶泰院      └松平吉透
         │              ├──松平宣維  伊達宗村──方子
         └松平忠昌──松平昌勝──清寿院   │           │
                            ├──松平宗衍──松平治郷不昧──松平斉恒
                   伏見宮邦永親王──光子
    
    
    

子:松平直基(結城直基)  

→前橋(川越)藩
→美作津山藩
  • 生母は品量院(三好長虎の娘)
  • 養祖父・結城晴朝に養育され、のち結城家の家督を継いでいる。
  • 慶長19年(1614年)に結城晴朝が死ぬと5千石を相続、寛永3年(1626年)には松平姓に復している。
    これにより結城家が廃絶したが、直基の子孫は家紋は結城家の家紋(巴紋・桐紋)を使い続けた。
  • 寛永元年(1624年)にに越前勝山藩3万石、寛永12年(1635年)越前大野藩5万石に加増移封され、正保元年(1644年)には山形藩15万石と漸次加増を受ける。
  • 慶安元年(1648年)姫路藩に国替えを命じられたが、そのわずか2ヶ月後、封地に赴く途上で死去した。
  • 子の松平直矩は、幼少であったために越後村上藩へと国替えとなり、成人後に姫路藩へと移る。越後高田藩の騒動に際して調整を行うが不手際を指摘され、半分の7万石へと減封されてしまう。のち豊後日田、出羽山形を経て陸奥白河藩主となる。
    • この家系は、松平明矩の代に寛保元年(1741年)に姫路へ国替えとなり、その子の松平朝矩の代に上野前橋藩主を経て川越藩となる。幕末には再び前橋藩主となって明治維新を迎えた。
  • 孫の松平長矩(宣富)は、越後高田藩の松平光長の養子となり、のち元禄10年(1697年)に美作津山藩主となっている。この津山藩は明治維新まで存続し、結城秀康の所持した刀剣類の多くが伝わった。

子:松平直良  

→播磨明石藩
  • 生母は奈和(長寿院、津田信益の娘)
  • 元和9年(1623年)、忠直が配流とされると、異母兄の忠昌が相続するが、その際に兄弟に分知され、直良も越前木本藩主となり2万5千石を知行した。
  • 寛永12年(1635年)に兄の直基が越前大野藩へ転封後には、越前勝山3万5千石。寛永21年(1644年)に兄の直基が出羽山形藩に転封した後を受けて越前大野藩5万石へと加増される。
  • 家督は子の松平直明が継ぎ、天和2年(1682年)に6万石で播磨明石藩へと転封される。この家系は、明治維新まで存続した。

関連項目