稲葉天目

稲葉天目(いなばてんもく)  

曜変天目茶碗
高6.8cm 口径12.0cm 高台径3.8cm
国宝
静嘉堂文庫美術館所蔵

  • 本能寺の変で失われたものを除けば、古来最も優れるとされる。

    曜變、稲葉丹州公にあり、東山殿御物は信長公へ伝へ、焼亡せしより、比類品世に屈指数無之なり、茶碗四寸五分位、高臺ちひさし、土味黒く、薬たち黒く、粒々と銀虫喰塗の如くなるうちに、四五分位丸みにて鼈甲紋有之、めぐりはかな気にて見事なり、星の輝くが如し。(名物目利聞書)

    ※「東山殿御物は信長公へ伝へ、焼亡せし」が、本能寺で焼失した曜変天目を指している。

    天目は茶碗の白眉にして、曜變は天目の巨擘なり、而して稲葉子爵家の曜變は、曜變中の曜變なりとすれば、此天目がいかに貴重なる者たるや、思ひ半に過ぐべきなり。(東都茶會記第六輯)

    曜變は日本國中に唯拾箇あるのみと云へば、此天目は無論其中の巨擘なるべし、察する所、徳川幕府の御物にして、稲葉家が拝領せし者ならんも、其年代を確知すべき史料を得ず、稲葉家は維新後茶器を他に譲り唯此天目のみを保留せしが、大正七年三月十八日、東京兩國美術倶樂部に於て入札に附せられ、拾六萬八千圓の高値にて稲葉家の姻戚なる現所持者(小野哲郎)に落札せり。(大正名器鑑

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由来  

  • 山城淀藩稲葉家に伝来したために名付けられた。
  • 春日局が病に臥せった時に家光が下賜した。その後、淀藩稲葉家に伝わり、「稲葉天目」と呼ばれる。

来歴  

徳川将軍家  

  • 元は柳営御物(徳川将軍家所蔵)。
  • 寛永6年(1629年)3代将軍家光が疱瘡(天然痘)を患った時、春日局は薬断ち(生涯薬を飲まないという誓い)をたてて伊勢神宮に参拝し平癒を祈願する。
  • その14年後、寛永20年(1643年)、春日局は65歳の時に病に倒れるが、かつて家光のために祈願した薬断ちにより決して薬を飲もうとしなかった。春日局の命を救うため、家光はこの曜変天目と薬を贈ったうえで手ずから飲ませたという。
    家光は二条城内に建てさせていた茶室「三笠閣」も贈っており、のち稲葉正則の江戸屋敷に移築された。明治14年(1881年)牛込の二条基弘屋敷に移築され、のち原富太郎(号三渓)に贈られて大正11年(1922年)に横浜市の三溪園に移築され、現存する。「聴秋閣」重要文化財

稲葉家  

  • その後は、稲葉正則(春日局の嫡孫。小田原藩2代)─稲葉正往(母は毛利秀元の娘万菊子。小田原藩3代、越後高田藩、下総佐倉藩)─稲葉正知(下総佐倉藩2代、山城淀藩初代。正室は小笠原忠雄の娘)と嫡子に相伝する。
    春日局と稲葉正成の子である稲葉正勝は、老中に任じられ小田原藩初代藩主となった。寛永11年(1634年)に38歳で死んでいる。
  • 以後は淀藩主稲葉家に伝来し、明治後は稲葉正縄子爵所持。
  • 稲葉家では明治維新後に多くの茶器を売り払っていたが、この稲葉天目は最後まで残していた。売立の行われる1ヶ月前に高橋箒庵が稲葉邸においてこれを拝見している。

    大正七年二月十六日東京府下靑山北町稲葉正縄邸に於て實見す。
    呑口覆輪なく、口緣下稍括れ、以下次第に窄り、裾より下は鐵氣色の土を見せ藥止り行儀宜く、一ヶ處土缺け落ちあり、高臺蛇の目形尋常にて、底内平面なり、外部一面黑紺色にて星紋を見ず、之れに反して内部は星紋大小群を成して羅布し、紺瑠璃色、銀色、群靑、紺碧等の色彩、紋中に散亂して、斑紋恰も豹皮の如く、光線一たび之を照せば、五彩燦爛相映發してチラゝと暈彩の變幻する、其光景如何様曜變の名目に背かず、水戸家又は龍光院の曜變も、各自其所長あれども、紋様の富餘にして且つ鮮明なる、此天目に及ぶべくもあらず、中に一線のひびきあるは、名玉の微瑕たるを免れざれども、亦猶ほ曜變の白眉たるを失はず、眞に稀代の珍寶と謂ふ可きなり。
    大正名器鑑

小野哲郎  

  • 大正7年(1918年)3月18日に両国美術倶楽部にて同家の売立が行われ、拾六萬八千園で三井財閥の小野哲郎氏(小野氏の妻は稲葉正縄の娘煕子)に譲渡された。

    名物曜變天目茶碗 金拾六萬七千園

    十八日東兩國美術倶樂部で擧行、日光に透して見るといよゝ色の變つて見える天下一品の名器曜變天目は、競爭の中心點となり、京阪の骨董商七人は聯合して、拾六萬五千圓に入札したが、東京の中村作次郎が拾六萬八千圓に入札して、終に其手に歸したので、大入札では毎回京阪側に壓倒されてゐた東京側は、一齊に歓呼の聲を擧げた、数年前大阪美術倶樂部で藤田家が九万圓で手に入れた交趾大龜香合(現在も藤田美術館蔵)が、今日まで道具中での高値のレコードであつたが、曜變はこれを突破して、空前のレコードを作つた譯である。(大正七年三月十九日萬朝報)

    記録により千円の違いがある。現在の価値で16億円以上。この時の売立で同時に出品されたのが、名物鳥飼来国次」や「篭手切江」である。

岩崎小弥太  

  • 昭和9年(1934年)に岩崎財閥4代目の岩崎小弥太が入手する。しかし小弥太は「天下の名器を私如きが使うべきでない」として生涯使うことはなかったという。
    岩崎小弥太は、岩崎弥之助(岩崎弥太郎の弟)の長男。母は後藤象二郎の長女早苗。従兄弟である岩崎久弥の跡を継ぎ、三菱財閥の4代目総帥となる。茶人としては「巨陶」と号するほど陶磁器の蒐集に力を入れ、その他書画・刀剣など数多くの美術品を収集し、貴重な古美術品の散逸や日本国外への流出を防いだ。
  • 岩崎小弥太は昭和20年(1945年)12月2日に没する。
  • 昭和21年(1946年)12月、熱海市林ヶ丘の自宅で行われた小弥太一周忌の際、孝子夫人の願いにより仏前に献茶したという。それが岩崎家での唯一の使用であった。
    現在の陽和洞岩崎別荘。のち三菱系29社が共有の形で岩崎家から譲り受けている。
  • 孝子夫人は昭和50年(1975年)9月死去。残されていた美術品は、義理の息子にあたる岩崎忠雄により、大部分が静嘉堂文庫に寄贈された。
  • 昭和16年(1941年)7月3日重要文化財指定
  • 昭和26年(1951年)6月9日国宝指定、財団法人静嘉堂蔵

関連項目  

曜変天目