石上神宮の小狐丸

石上神宮の小狐丸  

太刀
銘 義憲作
号 小狐丸(こぎつねまる)
刃長二尺六寸一分(79.1cm)、反り八分三厘(2.5cm)
奈良県指定文化財
石上神宮所蔵(いそのかみじんぐう、奈良県天理市)

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古備前義憲作  

  • 石上神宮の太刀、銘「義憲作」には、小狐丸の名が伝わっている。
  • 古備前義憲は古刀上々作。源頼朝の太刀を作ったという。
  • 地鉄は板目肌、刃紋は小丁子乱れ、焼直しでナカゴは生ぶ。目釘孔3つ。

来歴  

  • 古くより同神宮に伝来する。

室町時代  

  • 「和州布留大明神御縁記」文安3年(1446年)

    其内先有小狐太刀、此御剣、三条小鍛治宗近與稲荷大明神打而、奉天子御剣也、長二尺七寸、有藤英、有□字、浦又有狐、依之名小狐、即、奉安置之宝殿矣

江戸中期  

  • 「大和名所図会」寛政3年(1791年)

    「神庫(正殿の傍にあり。この内に方五尺の櫃あり。神符して開くことなし。小狐という剣なり。)

  • 寛政4年(1792年)、柴野栗山および住吉広行が全国の寺社を調査した「寺社宝物展閲目録」にも所載。

     布留社 十一月廿九日
    一、小狐丸太刀一振

明治初期  

  • 明治初年の小杉榲邨(こすぎ すぎむら)の「畿内寶物取調べ日記」、及び石上神宮の宮司菅政友の筆記に登場する。

    大和國石上布留神社に小狐丸太刀あり

    小杉榲邨は明治時代の国学者。阿波藩の陪臣の出身で、江戸に出て村田春野、小中村清矩と交わった。勤王論を唱えて幽閉されるが、明治2年(1869年)には徳島藩から地誌編集及び典籍の講義を命じられる。明治10年(1877年)には文部省で修史館掌記として「古事類苑」の編集に従事。明治15年(1882年)、東京大学古典講習科で国文を講じ、さらに文科大学講師、その間、帝室博物館監査掛評議員として古社寺の建築、国宝の調査に従事している。上記日記は、恐らくこの頃ではないかと思われる。
     菅政友については「七支刀」の項参照。

昭和初期  

  • また昭和4年(1929年)の「石上神宮宝物誌」には、「義憲」在銘の刀身が古来小狐丸と称せられて現存しているということが写真入で紹介されている。

    義憲在銘刀身(寶三七)
    古来小狐丸と稱せられ最も著名なものとなつてゐる。拵は前述慶長年間盗難の際失はれたといふ。身の全長二尺六寸一分五厘、莖の長さ棟方に於て五寸六分、身巾關部で九分八厘、鋒部横手に於て五分四厘、厚關部で二分横手で一分二厘、反り八分五厘、鎬作小鋒で庵棟を呈し、莖は栗尻で三個の目釘孔を有し「義憲作」の三字が切つてある。刄部の刄文は複雑な波狀を呈し焼巾が相當に廣い。「義憲」は備前長船の住、源頼朝の太刀を作つたと傳へられる刀匠である。本品に關して内務省嘱託本間順治氏(本間薫山)の示教によれば、現在知られてゐる物には義憲在銘の正確な遺品に乏しいから、之を眞なりとすれば頗る貴重な物であるが、なほ考慮を要する點があるといふ。且つ本刀は身巾が相當に研減らされてゐるにも係らず、餘りに焼巾の廣い點から見て、これが製作當時の處女状態を保持してゐるとは思はれず、或は後世再刄したものではあるまいかとの事である。之に關聯して思ひ起こされる事は、第二章に述べた如く、所藏古文書によれば本刀は徳川時代の初め盗難に罹つて一旦持出されたが、後その拵を剥いで神庫の橡に返戾されたといふ記事であつて、想像を逞うするならば此際相當の毀損を蒙つた爲め、修理を行つた物ではあるまいか。因に現在は奈良帝室博物館に出陳せられてゐる。

  • 昭和28年(1953年)奈良県の指定文化財。


源九郎狐(げんくろうぎつね)  

  • この石上神宮所蔵の小狐丸には、次のような伝承がある。
  • 源九郎稲荷神社(奈良県大和郡山市)に伝わるもので、それによれば大和長安寺の東、菅田明神の境内に小狐が住んでいたという。
  • あるとき、近くの淵で村人を苦しめている大蛇に小狐が立ち向かうが、返り討ちにあってしまう。その時、源九郎狐が眷属を引き連れて現れ、その加勢を得て見事大蛇を退治したという。
  • 大蛇の尾からは宝剣が見つかり、村人はこの宝剣を「小狐丸」と名づけて、天理の石上神宮へ奉納したという。
    源九郎狐は、むかし大和国にいたとされる狐で、播磨国にいた刑部狐は兄弟という。「義経千本桜」にも登場する。刑部狐(おさかべぎつね)は別名長壁姫(おさかべひめ)、小刑部姫。姫路城天守閣の五層に棲み、年に一度だけ城主に城の運命を告げたという。

盗難事件  

  • 弘化4年(1847年)の暮れのこと、大和の和助・佐蔵らの4名は、垂仁天皇陵(奈良市尼ケ辻町の宝来山古墳)を盗掘し、石上神宮の祠人を抱き込んで宝庫にあった小狐丸を盗み出した。

    此間有大和盗和助佐藏等余人(中略)或云、盗發陵之後、誘布留祠人與倶多竊其祠庫寶劔、大阪有其黨數人、嘗一賣因人舊名刀小狐丸於關白政通、博覧尤精典、曰此劔非世間所有者、唯大和布留社藏之、命檢之事因皆覺盗盡捕

  • その後、大坂の一味を通じてそれを准三后鷹司政通に売り込んだが、政通はそれが尋常の剣でないことに気づき調査させたところ、石上神宮の盗品と判明。和助ら一味は安政5年(1858年)磔に処せられた。
    鷹司政通は江戸末の鷹司家当主。父は関白・鷹司政煕、母は正室・蜂須賀儀子。正室は徳川治紀の娘・鄰姫(清子)。文政6年(1823年)に関白に就任、天保13年(1842年)には太政大臣に就任する。5年前後で関白職を辞する当時の慣例に反して安政3年(1856年)に辞任するまで30年以上の長期にわたって関白の地位にあり、朝廷で大きな権力を持った。孝明天皇の信認も厚く、関白辞任後(九条尚忠が後任)も内覧を許され、依然として朝議に隠然たる影響力を行使した。安政3年(1856年)8月8日准后宣下、12月9日には異例ながら太閤の称号を孝明天皇から贈られている。義弟の水戸藩主・徳川斉昭から異国情勢についてこまめに連絡を受け、孝明天皇に知らせた。明治元年(1868年)に死去。

    帝陵発掘事件:奈良奉行所の記録によると同じ時期に佐紀石塚山古墳、五社神古墳、宝来山古墳が盗掘を受け、付近の住人ら12名が古墳の盗掘犯として捕らえられた。首謀者とみられる4人は獄死し、これら4名の遺体は塩詰にして奈良市中を引き回しの上、磔に処せられたという。

関連項目