真田幸村


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 真田幸村(さなだゆきむら)

安土桃山時代の武将
真田幸隆の孫、父は真田昌幸
従五位下、左衛門佐
信繁
伝心月叟とも

Table of Contents

 「幸村」

  • 講談物により広く知られる名乗り「幸村」は、信繁自らが名乗った記録が見つかっておらず、寛文12年(1672年)成立の軍記物語「難波戦記」(万年頼方・二階堂行憲の著)がその初出とされる。
  • 大坂の陣の200年後の文化6年(1809年)、幕府の大目付から「幸村」名についての問い合わせを受けた松代藩真田家は、「当家では『信繁』と把握している。『幸村』名は、彼が大坂入城後に名乗ったものである」との主旨で回答している。
  • つまり幸村は通称であり、正式な名乗りは信繁ということになる。しかし、寛政年間(1789-1801年)に幕府が編纂した「寛政重脩諸家譜」でも諱を幸村としており、初名を信繁としている。

    幸村 初信繁 源次郎 左衛門佐 従五位下 母は上(※信之)におなじ。

  • ここでは幸村で通す。


 刀剣

  • 真田幸村が使ったとされる刀や槍、薙刀。

 泛塵

脇差
宇多国次作
真田幸村所用

  • 金象嵌「泛塵 真田左衛門帯之」
  • 詳しくは「泛塵」の項参照。

 薙刀

薙刀
無銘 伝真田幸村所用
越葵文庫所蔵(福井市立郷土歴史博物館寄託)

  • 真田幸村が大坂の陣で使ったという薙刀。
  • 幸村を討ち取ったとする越前松平家臣西尾宗次が、采配とともに持ち帰ったもの。
  • 後に越前松平家に献上され、伝来した。

    慶長二十年乙卯七月十三日元和ト改 大坂御陣茶臼山御本陣之節 真田左衛門尉幸村ヲ討取采配ト長刀 西尾仁左衛門尉宗次(由緒書)

  • 一般に、幸村は安井神社の境内で休んでいたところを西尾仁左衛門に見つけられ、「もう疲れた。戦う気はないのでわしの首を取って手柄にされよ」といったといわれている。つまり組討ちして取った首ではないということである。それを裏付けるかのように、細川忠興の書状にも「首は越前殿鉄砲頭取申し候、手負て、草臥(くたび)れして居られ候を取り、手柄にも成らず候。」と書かれている。
  • 幸村の最期については諸説ある。「南越雑話 上」(松平文庫)では名乗りあった上で討ち取ったとする。これを裏付ける文書が松平文庫所蔵の「忠昌様大坂二而御戦功有増」で、2013年に発見された(※忠昌は主君の松平忠昌のこと)。それによれば、西尾仁左衛門は相手を幸村と知らないまま槍で戦い、討ち取ったが、同家中で信繁と旧知の仲であった原貞胤が幸村の首であると指摘したため改めて家康に報告したという。
  • 薙刀は越葵文庫(えっきぶんこ)所蔵。
    越葵文庫は、越前松平家20代当主、福井市立郷土歴史博物館の名誉館長でもある松平宗紀氏が同博物館に寄託した同家東京本邸の収蔵史料。

 大千鳥十文字槍

  • 和歌山県九度山の善名称院「真田宝物資料館」には、幸村所用という十文字槍の穂先が残る。

 直槍

  • 長野県上田市の真田徹氏所蔵の直槍も幸村所用と伝える。
    仙台真田家の13代。幸村の二男片倉(真田)守信を家祖とする。幸村の嫡男大助は豊臣秀頼とともに自害したが、次男守信(大八)は片倉重長に匿われ、のち伊達家の家臣となった。正徳2年(1712年)、守信の子の辰信の代に「既に将軍家を憚るに及ばざる」の内命を受け、真田姓に復している。

 村正

  • 「名将言行録」によれば、幸村は家康を滅ぼすことを念願としており、常に徳川家に仇なす村正を持っていたとされる。※ただし光圀曰くと桃源遺事の引用
  • さらに元和元年5月7日、大坂夏の陣で幸村が徳川家康の本陣を急襲した時、家康に投げつけたとされる刀も村正という伝承がある。
    • ただし、「名将言行録」は江戸時代末期(1854-1869年)に書かれたものであり、一般的に信頼性に欠けるとされる。

 正宗貞宗

  • 大坂冬の陣の始まる前、大野治長の屋敷に現れた幸村は山伏の格好で伝心月叟を名乗り案内を乞うた。
  • 治長が登城中であったため番所で待っていると、若侍10人ほどが集まって刀の目利きをはじめる。ひとりが山伏殿の刀も拝見したいというので、ただの犬脅しのための刀でござるといって差し出した。見ると、出来や格好はもとより刃の匂いや光といい見事であった。侍たちがなかごを改めると、刀は正宗、脇差は貞宗であった。これほどの刀を持つものは只者ではないと騒いでいるところに大野治長が戻ってきて、一目見て幸村であることを見抜き屋敷へ上げたという。
  • 後日幸村はこの若侍と会った時に、目利きの腕はあがったかねと尋ねてからかったという。

    一人の若者、真田に向て「和僧の刀脇指見せられよ」と言。真田聞いて「山伏の腰刀、只犬おどしの為迄なれは、中々掛御目候物にて無之候得共、刀の悪敷は元来知れ候得は、御慰計に」とて指出す。若者するりと抜て見れば、出来恰好は不及申、刃の匂、金の光、兔角不及云に、「扨も見事成」と誉る。外の若者見て「山伏は能刀さしたり。脇差も見せよ」とて、抜見るに、是又見事さ言へき様なし。「さらは中小身を見よ」とて、銘を見るに、脇差は貞宗、刀は正宗と銘有り。中身の見事さ無言計。皆々怪み不審して「いか様只者にはあらし」と怪み思ふ所へ、修理城より帰り
    (武辺咄聞書)

 鎧塚

  • 幸村を討った西尾仁左衛門は、後に幸村の霊を弔うため孝顕寺「真田地蔵」を建立している。
  • この地蔵像の裏には「元和元寅年 大機院真覚英性大襌定門 三月初七日 西尾氏立之」と書かれている。幸村の首塚と伝わっていたが、明治期に建てられた「真田幸村鎧袖塚碑」では、信繁の鎧袖を埋めて代々供養したものとしている。この地蔵は福井市立郷土歴史博物館所蔵。
    福井市の孝顕寺は、結城秀康の入部に伴い下総結城家の菩提寺であった孝顕寺から分寺され菩提寺として建立されたもの。孝顕寺の名は下総結城氏15代目結城政朝の永正寺殿宗明孝顕大居士にちなむ。


 他の真田家伝来刀剣


 生涯

  • 真田幸村は、永禄10年(1567年)信州真田家真田昌幸(武藤喜兵衛)の二男として生まれた。

 家族

  • 父は「表裏比興の者」と評された戦略家、真田安房守昌幸。
  • 正室は大谷吉継の娘・竹林院。
    真田幸昌(大助)・片倉守信・あぐり(蒲生郷喜室)・菖蒲(片倉定広室)・おかね(石川貞清室)らの母。

 真田氏

  • 信濃国小県(ちいさがた)郡の国衆であった真田氏は、幸村の祖父にあたる真田幸隆の頃に甲斐の武田晴信(信玄)に従属する。伯父の真田信綱は先方衆として信濃侵攻や越後国の上杉氏との抗争、西上野侵攻などにおいて活躍する。
  • 幸村の父真田昌幸は、真田幸隆の三男として生まれる。武田家の足軽大将として活躍し、一時期武田庶流の武藤氏の養子(武藤喜兵衛)となっていた。

 武田氏の衰退

  • 元亀4年4月(1573年)に武田信玄が病没し、その2年後の天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて武田家は主力を失う。真田家でも父昌幸の長兄・真田信綱および次兄・真田昌輝が戦死したため、真田昌幸が真田氏の家督を継いでいる。
  • その後天正6年(1578年)に上杉謙信が急死すると越後では御館の乱が発生し、その過程において天正7年(1579年)には武田・上杉間で甲越同盟が成立し、代わりに武田氏・後北条氏間の甲相同盟が破綻する。
  • 天正10年(1582年)3月、信長に追い詰められた武田勝頼が天目山で自害すると真田氏は信長に恭順して滝川一益の与力武将となり、上野国吾妻郡・利根郡、信濃国小県郡の所領を安堵されている。

 本能寺の変と天正壬午(てんしょうじんご)の乱

  • しかしその3ヶ月後の天正10年6月に本能寺の変が起こると、旧武田領では、上杉家・徳川家・後北条家の間で勢力争いが激化する(天正壬午の乱)。
  • 滝川・森ら旧武田領内の織田家臣が逃亡した後、真田昌幸は当初上杉景勝に、ついで7月に北条氏直に、さらに9月には徳川家康に従属する。10月末に徳川・後北条間で和睦が成立すると、上野国は後北条、甲信は徳川の支配地となったため、真田氏は混乱に乗じて入手していた上野沼田城を手放すこととなり、これが後々まで争いの元となってしまう。
  • 真田昌幸は徳川との手切れに備えて上杉家に従属し、幸村は天正13年(1585年)に人質として上杉家に送られる。同年8月には後北条・徳川の両軍が真田領の制圧を目的に上田城および沼田城に侵攻するが、昌幸はこれを辛くも退けている(第一次上田合戦)。天正13年の冬には、上杉家は秀吉に臣従、人質であった幸村は今度は大坂へ送られることとなった。
  • この武田氏滅亡後のめまぐるしい動きの中、上杉・後北条・徳川と大勢力の間を巧みに遊泳しただけでなく、抜け目なく領土を拡大することで国人領主であった真田の名を全国に知らしめた真田昌幸の智謀・武勇・戦略を合わせ持った手腕は、秀吉(石田三成・増田長盛らの手紙)をして「表裏比興(ひょうりひきょう)の者」と言わしめた。
    「比興」は現在では「卑怯」の字を当てられるが、当時は老獪で食わせものだという意味合いであり、戦国武将としては褒め言葉である。
  • 中央で織田旧臣との争いを制した秀吉が台頭すると、真田氏は今度はこれに従属。幸村は人質として大坂に送られることとなる。この時の縁で、のち大谷吉継の娘を正室に迎えている。一方、天正17年(1589年)には真田家は家康とも和睦が成立。幸村の兄・真田信幸は駿府城に出仕し、本多忠勝の娘・小松姫(稲姫)を正室とする。
  • 幸村は、豊臣配下の武将として小田原征伐にも従軍、文禄3年(1594年)には従五位下左衛門佐に叙任されるとともに、豊臣姓を下賜される。

 関ヶ原

  • 慶長3年(1598年)秀吉が後継者に不安を残したまま病死。慶長5年(1600年)家康が会津の上杉景勝討伐の兵を起こすと、真田家の家督を継いだ兄・信之は、家康に従った。一方、これに呼応して石田三成が挙兵すると、幸村は父・昌幸に従い西軍に付く。
  • 関ヶ原に向け中山道を進む徳川秀忠率いる3万8,000の大軍を、僅か2,000の兵力で上田城に篭城して迎え撃ち、秀忠軍の進軍を遅らせることに成功する(第二次上田合戦)。結果、秀忠は関ヶ原決戦に遅参することになる。
    関ヶ原への秀忠軍の進軍については諸説あり。
  • 戦後、兄真田信之とその舅・本田忠勝(忠勝の娘小松姫と婚姻)のとりなしにより、幸村は死一等を減ぜられ、父と共に紀伊国九度山に配流となった。

 父・昌幸の死

  • 九度山配流の10年後、慶長16年(1611年)6月4日に父・昌幸は死去。この時、昌幸が天下二分の秘策を実行できぬままに世を去る無念を語ると、幸村は是非にもその秘策を授けてくだされとせがむ。

    眞田安房守昌幸、關原ノ後、高野ノ久戸山ノ麓、禿ノ宿ニ潜居シ、常ノ志、秀頼卿ト源君トノ戰アラバ、大坂ニ與シテ、關東ヲ亡サント欲ルニアリ、圍碁ヲ好テ、幸村ト戯奕ス、是圍碁ニアラズ、備立人衆配リヲ試ルナリ、重病ヲ受テ將死、因テ歎息シテ、我ニ一ツノ秘計アリ、不用シテ徒ニ死ナンヤト云ケルヲ、幸村、傍ニ在テ聞之、思召ルゝ旨アラバ、家訓後學ノタメ、承置候ハゞヤト尋ケルニ

  • 昌幸は仕方なくその秘策を語るが、しかしその秘策を成功させるためには昌幸自身の戦略家としての「武名」が必須条件であり、まだ年若く武功を立てる間もなく九度山に流されたお前には無理であると諭した。

    汝ガ非所及ト云テ不語、幸村、身不肖ニ候ヘハ、仰置レタリ共カヒナキ者ト、年來御覧シ捨ラレケルニヤ、素ヨリ庸愚ニシテ、人ガマシク可申ニアラズ、返々モ自愧入候ヌト、深ク恨タル氣色ナリ、昌幸、汝恨ル事ナカレ、我以汝庸愚ナリトシテ、我志ヲ不言ニハ非ズ、我ハ老功アリテ人ニ信ゼラル、信ゼラルゝ時ハ、言聴レ諜用ラレン、汝ガ才器縦我ニ增レリ共、軍陣ノ數ヲ積ザルニ依テ名顕ズ、名顕レザレバ金言モ聞レジ、良策モ用ラレジ、同輩異論ヲ立テ口々心々ナラバ、何事モ無益ナラン、然レ共、胸中ニ思コメテ空クセンモ又ナゲカシ、サレバ汝ガ爲ニ語ン、

    父の訃報を受け取った真田信之(幸村兄。上田藩→松代藩初代藩主)は、葬儀を営むことについて本多正信に相談しているが、正信はこれに対して押しとどまるよう勧めている。この手紙は現在真田町宝物館所蔵
    慶長16年(1611)6月13日 真田信之宛本多正信書状

 大坂入城・「真田丸

  • 慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川氏と豊臣氏の関係が悪化すると、幸村は豊臣家から黄金200枚、銀30貫を贈られ大坂城に入城する。

    (慶長19年10月9日)真田信繁父子、大坂城に入らんとして、紀伊高野山を発す
    (慶長19年11月12日)真田信繁等、大坂天王寺の徳川勢の陣を攻撃すべきを、大野治長等に進言して容れられず

    現在の貨幣価値で7億円を超える巨額の援助金だが、これも当座の支度金としてのお金である。豊臣家の無尽蔵とも言える財力と、幸村への期待の程が伺える。

  • 幸村は、三の丸南側玉造口外に「真田丸」と呼ばれる土作りの出城を築き、大坂冬の陣では大坂城を囲んだ徳川方に対し数度に渡り打撃を与え名を轟かす。

    (慶長19年12月4日)徳川家康、大坂城外茶臼山に陣し、諸勢をして真田信繁の陣を攻めしむ、信繁、之を破る

    この当時大坂城の北方面は一面の湿地帯であり、大軍の展開には向かなかった。大坂城を攻める主力軍は奈良方面から八尾方面を通って進入するほかなく、家康本陣やそれを迎え撃つ真田丸が、現在の大阪城南側にあたる天王寺区に展開したのはそのためである。

  • 徳川軍は大坂方の買い占めによる兵糧不足もあり、早期に織田有楽斎を通じて和平交渉を行い、和議が成立する。この時和議の条件に含められた城割について双方の見解の違いがあり、また一般的な城割の域を超えた破壊活動により、大坂城は城郭としての防御力を一気にそがれることとなってしまう。
  • その翌年の大坂夏の陣においては、外堀を埋められたために打って出るしかなく、5月6日には幸村は大和方面から大坂へ徳川方先鋒として進んできた伊達政宗隊を道明寺に破り、一時的に後退させることに成功する。
  • いったん大坂城に帰陣するが、豊臣方では後藤基次や木村重成など名のある武将が次々と討たれており、幸村は豊臣秀頼本人の出陣を願うも聞き入れられることはなかった。

 最期

  • 翌5月7日大坂城南方面に展開した大坂方において、幸村は最右翼に陣取る。この時幸村が進言したとされる作戦は、左右両翼に配した真田隊と毛利勝永隊により戦線を維持する間に遊撃隊の明石全登率いる軽騎兵団を迂回させ、合図とともに家康本陣を横撃させるというものであった。
  • しかし合図を待たずに毛利勝永隊が射撃を開始してしまったために作戦を断念せざるを得なくなり、「今はこれで戦は終わり也。あとは快く戦うべし。狙うは徳川殿の首ただひとつのみ」とつぶやき、家康本陣に向かって突撃する。
  • 真田隊は、越前松平家の松平忠直隊1万5千の大軍を突破、合わせて10部隊以上の徳川勢と交戦しつつ後方の家康本陣に突入し、親衛隊・旗本・重臣勢を蹂躙した。これにより家康本陣の馬印が倒され、家康は二度自害を覚悟したという。
  • しかし度重なる突撃で部隊は消耗し、遂には兵力で勝る徳川勢に追い詰められ、最期は四天王寺近く(天王寺公園北)の安井神社で休んでいる所、松平忠直隊の鉄砲組頭西尾宗次に発見され、「わしの首を手柄にされよ」と言い残し討ち取られたという。安井神社境内には真田幸村戦死跡之碑が残る。
  • 享年49。
    幸村の最期には諸説あり、同じ結城秀康の子である松平直政が討ち取ったともいう。松平直政はのち出雲松江藩主となるが、松江城にはこの時に幸村より贈られたという「真田軍扇」が伝わる。詳細は「亀甲貞宗」の項を参照のこと。




 子孫

  • 正室竹林院は、大坂の役の直後に浅野長晟により捕えられている。

    (天正20年5月19日)和歌山城主浅野長晟、真田信繁の妻を領内紀伊伊都郡に於いて捕へ、之を本多正信の許に送る

長女・阿菊
「すへ」とも。母は真田家臣・堀田作兵衛(興重)の妹。信濃時代に生まれ、幸村が高野山に蟄居した後は、上田に残留した堀田作兵衛の養女となる。大坂の陣以前に信濃国長窪宿(長野県小県郡長和町)の本陣・石合十蔵(重定または道定)に嫁いだ。
次女・於市
九度山入に同行し、若くして亡くなったという。
四女・あくり
蒲生郷喜(蒲生郷舎の兄)室となった。
※この郷喜・郷舎兄弟の父・蒲生郷成は、始め坂源次郎。関成政、ついで柴田勝家に仕えたのち蒲生氏郷に家老として仕えた。九州征伐で武功を上げ蒲生姓を許され、蒲生郷成と名乗った。家老として重用されるも、のち同僚の岡重政(岡左内の弟)と対立し、子の郷舎とともに蒲生家を出奔し藤堂高虎に仕えた。
長男・大助
真田幸昌。母は竹林院。父・幸村と共に九度山を脱出して大坂城へ入っている。父と行動を共にしていたが、最期の時を前に大坂城の落城を見届けるよう厳命され城に戻ったという。その後、豊臣秀頼切腹の後、加藤弥平太と刺し違えて果てたという。
三女・阿梅
母は高梨内記の娘、あるいは竹林院ともされる。信濃時代に生まれたとされる。父と共に大坂城に入り、夏の陣で落城するとその後の混乱で仙台藩家臣の片倉重長(父は片倉小十郎景綱)の兵に乱取りされ(あるいは幸村が片倉に託したとも言う)、同家の侍女として召し抱えられる。後に信繁の娘であることが判明し、元和6年(1620年)に重長の側室となり、正室が死去すると継室に収まった。弟の大八(片倉守信)、妹の阿菖蒲(片倉定広室)も、この姉の縁により片倉家に身を寄せた。重長との間に子は生まれず、前妻の娘の子・景長を養子とした。
次男・大八
真田守信。伊達家重臣片倉重長(高名な小十郎景綱の子)の元で姉達とともに保護され、後に幸村三女である姉・阿梅は、重長に嫁ぐ。大八は元服し、幕府の追求から逃れるために一時的に片倉守信を名乗るが、その息子辰信の代に真田性を名乗ることが許され仙台真田家として今なお続いている。
五女:顕性院
母は豊臣秀次の娘・隆清院。同母弟に三好幸信。慶長9年(1604年)の生まれという。寛永4年(1627年)頃に出羽国檜山3千石を治めていた久保田藩佐竹家家臣で藩主佐竹義宣の実弟・多賀谷宣家(のちの岩城宣隆)の側室となる。御田姫(おでんひめ)。宣家の嫡男・庄次郎(岩城重隆)を産み、その後夫が亀田藩主となり、名を岩城宣隆と改めた頃に継室になっている。のち岩城宣隆との間には、隆家、女子(寂寥院)の子をもうけている。同母弟の三好幸信を呼び寄せて岩城家に士官させ、自身の猶子としている。
三男・真田幸信
隆清院を母として、大坂夏の陣の2ヶ月後に京都で生まれる。真田姓を名乗ることを憚り、外祖父・秀次の旧性である三好を名乗る。のち、姉の御田姫の嫁ぎ先である出羽亀田藩主岩城宣隆(佐竹義重の四男)の下に引き取られ、元服すると三好幸信と称して380石を与えられた。
四男・真田之親
権左衛門。九度山蟄居中に生まれたとされるが詳細は不明。大坂夏の陣の後、讃岐に逃れて細川(石田)民部大輔国弘に庇護され、その養子となったという。

 説話

  • 江戸時代に入ってから、とくに講談などによりその名が広まり、紀州九度山にいる頃より猿飛佐助霧隠才蔵を始めとする真田十勇士を縦横に使い諜報活動を繰り広げたという。

 関連項目


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