白山吉光


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 白山吉光(はくさんよしみつ)


銘 吉光
七寸五分六厘(22.9cm)、反り七分三厘(2.2cm)
国宝
白山比咩神社所蔵(石川県白山市、石川県立美術館寄託)

 来歴

  • 寛永10年(1633年)12月、徳川家光の養女大姫(清泰院阿智子、水戸藩主徳川頼房の四女)が加賀藩3代藩主前田光高に嫁いだ際の持参品。
    婚礼が決まったのは前年寛永9年(1632年)の12月13日。御礼言上で登城した際に、光高は貞宗の御刀、利常は貞宗の御脇差を拝領している。入輿は寛永10年(1633年)の12月5日。婚礼後に登城すると、将軍家から利常へ「和歌山正宗」、光高には「太郎作正宗」および「信濃藤四郎」が贈られた。これに対して利常から、行平太刀、「五月雨江」、「八幡正宗」が、また光高からは一文字の太刀が将軍家に献上された。なお大姫の調度品については前日の4日に運び込まれている。
  • 清泰院は、寛永20年(1643年)に長男綱紀を出産する。この時光高は金沢にいたが、江戸までの120里(約480km)を通常12日かかるところをわずか7日で急行して駆けつけた。光高はその2年後正保2年(1645年)4月5日に茶会の席で突然倒れて急死。清泰院は明暦2年(1656年)9月23日に死去。享年30。
  • その死後、明暦3年(1657)に4代藩主綱紀(綱利)が亡母・清泰院の冥福を祈念して白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)に奉納した。

          白山御奉納吉光御劔之事
      覺
    一、吉光劔  白鞘に入。
    一、臺鎺   上下金。
    一、袋錦裏紋繻珍緒萌黄。
    一、箱内梨子地、外黑塗、きちやうめん並御位署書金粉、鐶梅輪内滅金、緒紫。
      以 上
      酉九月十六日     今枝民部
     
    白山へ吉光之劍就御寄進、右紙面之通改無相違、長吏・仙藏坊並神主兵部・式部・勘解由・彌兵衛・宇右衛門・新之丞・掃部・三郎兵衛・小兵衛・次郎兵衛相渡し、寶前籠置候様に申渡候條、不賣代替様常々縮可被申付候、以上。
      明暦三年酉十二月十九日
                              奥村因幡
                              津田玄蕃
                              前田對馬
       葛巻藏人殿
       森 權太夫殿
       山森 吉兵衛殿
     
    奥村因幡殿・津田玄蕃殿・前田對馬殿奥書通、急度可被相守候、以上。
      明暦三年酉十二月十九日
                              葛巻藏人
                              森 權太夫
                              山森吉兵衛
       社僧・神主中

  • 享和3年(1803年)に拭いを行った記録がある。

    参詣之砌白山吉光御拭紙

    当時の藩主である11代藩主前田斉広は、享和2年(1802年)3月9日に治脩の隠居により家督を継いでいる。同年8月、藩主斉広は帰国の暇乞いを行い13日に江戸を発ち、同月25日に金沢に着。また前藩主治脩は10月に湯治のため江戸を発って同25日に金沢に着いている。享和3年9月13日には藩主斉広は江戸参覲のため金沢を発っている。
     上記の拭いの記録によるとこの間の参詣の可能性があるが、いずれも参詣した記録が見当たらない。なお、3年後である文化2年(1805年)3月4日には両名が参詣した記録が残る。

  • 明治42年(1909年)9月21日に旧国宝指定。

    刀劔 吉光 一口
    石川縣石川郡河内村 白山比咩神社
    (明治42年内務省告示第百十六號)




 白山論争

  • 現在石川県と岐阜県の間にそびえ立つ白山(はくさん)は、古来より山岳信仰の対象として崇められ、現在は富士山、立山と並び日本三霊山と称される。
  • 平安時代には越前・加賀・美濃の三方面からの修行僧により禅定道(登山道)が開かれ、その登山口はそれぞれ越前馬場、加賀馬場、美濃馬場として発展した。越前馬場には平泉寺白山神社、加賀馬場には白山比咩神社、美濃馬場には長滝白山神社がそれぞれ建立される。
  • 中でも平泉寺白山神社は最盛期に48社36堂6千坊、僧兵8千人の巨大な宗教都市を形成し、戦国時代には朝倉氏と肩を並べる越前国の一大勢力であったが、天正2年(1574年)一向一揆勢に焼き討ちされ衰亡する。
  • 江戸時代にはそれぞれ再興されるが、白山嶺上の管理を巡り三馬場間で論争が起きた。
  • これは寺院と馬場だけではなく、それぞれの藩主家をも巻き込む領地争いへと発展し、越前(平泉寺白山神社と親藩福井藩)と加賀(白山比咩神社と外様筆頭100万石前田家)の争いは激しく、ついに寛政8年(1688年)8月幕府裁定により白山麓十八ヶ村は幕府領(天領)となった。
    東谷11ヶ村:瀬戸・女原・二口・五味島・釜谷・鴇ヶ谷・深瀬・下田原・島・風嵐・牛首、西谷5ヶ村:杖・小原・丸山・須納谷・新保、尾添谷:荒谷・尾添。
    うち加賀藩は荒谷・尾添の2ヵ村171石。福井藩は残16ヵ村230石
  • このとき白山山頂が平泉寺領と定められ、白山頂上本社の祭祀権を獲得した。こうして4代藩主綱紀の時代に白山論争は終結した。

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