猪ケ窟兼定


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猪ケ窟兼定(いのがくつ)  

太刀
銘 和泉守兼定/永正八年二月日
長 二尺三寸八分

  • 二代兼定(之定)の作。
  • 之定が和泉守を受領するのは永正8年(1511年)であり、本刀は同年に打たれたものである。
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由来  

  • 宇津忠茂の佩刀。
  • 宇津五郎左衛門忠茂はもと今川氏に仕えていたが、桶狭間で義元が討たれた後は浪人して三河碧海郡和田(現 岡崎市)に隠遁した。
  • 天正3年(1575年)8月28日、忠茂は愛犬を連れて矢作川上流に猟に出かける。山中で鹿を追い回していたがやがて疲労し、猪ケ窟と称する場所で休憩して食事を摂った。
  • 食後、猛烈な眠気が襲ってきたためそのまま眠ってしまうが、しばらくすると連れてきた愛犬がけたたましく吼え始めた。しかしあまりの眠気の余りまた寝入ると、犬は忠茂の周りを回りながら狂ったように鳴きたて起こそうとした。あまりにしつこかったため、堪りかねて目を見開き、「不届き者め」と犬を蹴飛ばし、遂には抜き打ちに愛犬の首を刎ねてしまった。
  • すると愛犬の首は鞠のように虚空へ飛び上がり、そのまま近くにあった大樹の枝にいた大蛇の頭に噛み付いたという。これに驚いた忠茂は、すぐさま大蛇の尾を斬り落とし、さらに樹上から落ちてきた大蛇の頭をも斬り落として危機を免れた。
  • 愛犬の忠義をようやく悟った忠茂は、9月10日に和田の地に愛犬の頭を埋め、その上に祠を建てて供養したという。
  • その後、この兼定は「猪ケ窟」と号するようになったという。
  • またこの和田の祠はのち「犬頭社」と称し、現在は糟目犬頭(かすめけんとう)神社(愛知県岡崎市宮地町)と呼ばれている。

異説  

  • この大蛇を切った主については異説が伝わっており、それによれば三河上和田城主であった宇都宮(武茂)泰藤であるという。
  • 宇都宮泰藤は、楠木正成と戦ったことで有名な宇都宮公綱の従兄弟の子。泰藤は足利尊氏と戦い敗れている。のち越前に逃れ高師泰とも戦っている。
  • この宇都宮泰藤の場合も逸話の内容はほぼ同じで、貞和2年(1346年)大蛇に飲み込まれようとした主人を愛犬が救おうとするが首を刎ねられている。
  • その後宇都宮泰藤は、犬の頭を上和田に、また尾を下和田新宮(現在の犬尾(けんぴ)神社、岡崎市下和田町字北浦)に葬ったという。こちらの逸話は犬尾神社由緒に書かれている。

    貞和二年(一三四六)上和田城主宇都宮泰藤犬の危急の報を知らず頭首を刀で斬ったが大蛇からの難を免れることができた
    これは神明の犬によるものであると深く感じ入って犬の霊を犬頭犬尾の両社に祭って弔う



逸話の主について  

  • これら逸話の主、「宇都宮泰藤」と「宇津忠茂」は同じ下野宇都宮氏の一族(泰藤の七代孫が忠茂。大久保系図による)であり、恐らく元は同じ人物の逸話であったものが、長い時のあいだに誤伝したものと思われる。
    【下野宇都宮氏】
    宇都宮景綱─┬貞綱──公綱──氏綱──…
          │
          │  【武茂氏】      【宇津氏】
          └泰宗─┬武茂時景─泰藤─泰綱─宇津泰道─泰昌─昌平─昌忠─忠与┐
              └宇都宮貞泰(豊前宇都宮氏)              │
                                          │
     ┌────────────────────────────────────┘
     │
     │【大久保】
     └─宇津忠茂─┬大久保忠俊
            ├大久保忠員─┬忠世─忠隣
            └大久保忠行 └忠佐
    
    宇都宮貞泰については「鶴丸国永」の項参照。この一族はのち伊予を経て豊後仲津に移り、筑後宇都宮氏の祖となる。
  • 大久保系図が正しいとして、宇津忠茂の子の大久保忠員(忠世の父)は永正8年(1511年)生まれで天正10年(1582年)に死んでいる。天正3年(1575年)という年代はすでに徳川家康が伸長しつつあった時期であり、それを考えると宇都宮泰藤の逸話ではないかとも思われる。
  • しかし「之定」こと二代兼定は文亀・永正年間(1500年頃)の人物とされるため南北朝時代の宇都宮泰藤が所持できるわけがなく、逆に忠茂にとっては同時代の作刀であったことになる。いずれにしろ詳細はわからない。

大久保氏  

  • なお宇津忠茂の子孫は「大窪」を経て「大久保」と称し、のち大久保忠世、忠佐の兄弟が戦功を挙げ、德川譜代大久保家として重きをなした。
    なお幕末の大久保一翁は忠茂の長男大久保忠俊の庶子に始まる旗本の家系である。
  • 本刀「猪ケ窟兼定」のその後は不明。