滝川高綱

滝川高綱(たきがわたかつな)  

太刀
銘 高綱
号 滝川高綱
静嘉堂文庫所蔵

  • 高綱は古備前派刀工
  • 朱塗鞘打刀拵が附指定されており、こちらは桃山期の製作という。

由来  

  • 滝川一益拝領による。

来歴  

  • もとは信長の所持
  • 滝川一益は信長の重臣の一人で、織田四天王に数えられる。
  • 信長が永禄10年(1567年)~11年に行った伊勢攻略の際にはすでに先鋒として活躍し、戦後安濃津・渋見・木造の三城の守備を命じられている。その後も長島一向一揆と対峙しながら各地を転戦し、一乗谷城の戦い、長篠の戦い、越前一向一揆攻略、天王寺合戦、紀州討伐などに参陣した。
  • 天正8年(1580年)に小田原城主北条氏政が信長に使者を送った際に、武井夕庵・佐久間信盛と並んで関東衆の申次を命ぜられ、その後信盛が追放されたことから関東衆とりわけ北条氏の申次は滝川一益が一手に行うこととなった。
  • 天正10年(1582年)に信長が甲州征伐を企図すると、織田信忠を指揮官とした攻略軍に河尻秀隆とともに軍監となり、森長可らと合わせて攻略戦の主力となっている。
  • 戦後、武田家追討に功があったとして滝川一益が拝領したのが本刀であるという。
    なおこの際に滝川一益は茶の師匠である三国一太郎五郎に対して、「褒美について問われれば珠光小茄子(のち本能寺で焼失)を所望したのだが、このような遠国を与えられ茶の湯の冥加も付きてしまった」と手紙を送っている。
     この時一益ははすでに58歳であり、その後の人生は精彩を欠く。信長も老いた身の一益を上野へ置くことが気がかりだったのか、名馬「海老鹿毛」と短刀をも与えて励ましたという。まもなく起こった本能寺の変で状況が一変し、上野の一益は孤立する。北条家の軍勢を迎え撃つが破れ、ようやく伊勢についたときには清州会議も終わっており、一益の織田家中での立場は急落した。柴田勝家に与するも負け、のち秀吉に下っている。天正14年(1586年)9月没。享年62。