治金丸


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 治金丸(ちがねまる)

黒漆脇差拵
刀身無銘(号 治金丸)
刃長53.8cm
国宝
那覇市歴史博物館所蔵

なお国宝指定は本刀単独ではない。従来本刀を含む「琉球王尚家伝来品」85点が重要文化財に指定されていたが、それに加えて「附 王装束及衣裳関係文書」12冊、さらに未指定の「琉球国王尚家関係文書」1,154点が追加され、計1,251点が「琉球国王尚家関係資料」として、2006年に国宝に指定されたものである。

  • 所蔵館では「じがねまる」としている。
Table of Contents

 概要

  • 無銘であるが、応永信国の作と推定されている。
  • 尚家伝来の刀剣。
    ただし、後に引用するように「球陽」によれば、仲宗根豊見親が平良の北、務田川において発見したものだとする。その元の持ち主は不明である。

 来歴

  • 琉球の歴史書「球陽」によれば、嘉靖元年(1522年、尚真王46年、大永2年)に宮古島の仲宗根豊見親(なかそね とぅゆみゃ)が尚真王に献上した刀とされる。

    平良の北、務田川、夜半に至る毎に、音響地を揺がし、光輝天に沖して人民畏懼す。鯖祖氏豊見親玄雅、彼の地に往き去くに、音弭み光滅して一物有ること無し。曙天に至るを俟ち満処に巡到し、心を用ひて之れを見るに、只一剣有るのみ。豊見親、大いに之れを奇怪とし、此の剣を収獲して回る。此れよりの後、祥光門をめ、瑞色戸を繞りて一点の災殃有ること無し。豊見親、深く之れを珍重し、以て伝家の宝と為す。後日に至り、深く此の宝剣の凡人庸民の得て宝とすべからざるを念ひ、嘉靖壬午、豊見親、朝覲入貢するの時、此の宝剣を捧げて中山に至り、聖主に奉献す。
    (球陽巻3 宮古山の鯖祖氏玄雅宝剣を献上す。)

  • また「治金丸宝刀ノ由来」によれば、1522年に宮古島の豪族仲宗根豊見親が、八重山諸島平定の慶賀として尚真王に献上したという。

    時に、宮古島より宝剣一口、名は治金丸、宝珠一貫、名は真珠を献ず。
    (球陽巻3 即位元年、尚真の世、治道大いに明らかにして政刑咸備はり以て雍煕の治を致す。)

    仲宗根豊見親(なかそね とぅゆみゃ)
    沖縄県の宮古島の豪族、島主。15世紀末から16世紀初めの宮古第一の首領であり、朝貢開始を機に琉球豪族となった。成化年間(1465年 - 1487年)に尚円王に謁見し、島主に任じられたという。童名は空広(そらびー)。「忠導氏家譜正統」によれば名乗は玄雅。仲宗根玄雅(なかそねげんが)。元の性は鯖祖(さばおや)氏だという。また後裔は忠導(ちゅうどう)氏を称した。

  • さらに仲宗根豊見親を元祖とする歴代系譜が記された「忠導氏系図家譜正統」によれば、仲宗根豊見親が八重山島与那国の首領・鬼虎の討伐を命じられた際に、尚真王より恩借した刀であり、討伐後にこれを返上したものだとする。

    嘉靖年間、八重山島与那国の首長鬼虎、己の武勇を武勇を負み、王化に随はず。故に玄雅(仲宗根豊見親)命を奉じ、追罸の時、聖上に殊に御剣治金丸を恩借し賜ふ。此に於て恩を謝して帰島し、当地の兵を率ひ、彼の地方に至る。逆徒を征罸し、凱歌を唱へ、入朝して御剣を返上す、云々。
    (忠導氏系図家譜正統)

    弘治年間、八重山島退治の時、兵船を遣りて之を攻め令む。然に兵船津口に入ること能はず。而ば空しく帰帆する也。故に今玄雅(仲宗根豊見親)に命じ、之を討た使む。此の時の宗徒の勇士は、嫡子金盛豊見親、二男祭金豊見親、三男知利真良豊見親、金志川金盛、同人弟那喜大知─是の人後来金志川豊見親と称す─、精兵二十四人。(略)相随ひて既に舟を艤して与那国島に至る。(略)鬼虎、美人の巧言令色に惑はされ、酔に乗じて本舩を入れ挽か使む。(略)鬼虎大ひに笑ひて曰はく「汝等今日釜中の魚となる。奈何にして飛び出し得るか」。其の声未だ了らざるに、左右より金盛兄弟、金志川兄弟之を挟み、攻戦す。鬼虎当に右に払ひ左に大喝一声す。其の威猶迅雷のごとし。庶人愕然として引き退く。時に玄雅田の中より躍り出て、御剣治金丸にて鬼虎の右の膝を薙ぎ落としたり。嫡子金盛走り寄り、首を取る。余賊悉く降参し、此に於て鬼虎の女子を捕えて帰島す、云々。
    (忠導氏系図家譜正統)

    「忠導氏系図家譜正統」の釈文は「沖縄・与那国島の鬼虎伝説」 原田信之 新見公立短期大学紀要 第29巻 2008年より

    この「鬼虎征罸」の発生年代について、「史傳」では嘉靖元年(1522年)とするが、異説があり詳細不明。なお仲宗根豊見親自身は生没年不詳ながら天順年間(1457年 - 1464年)に生まれ、嘉靖の初めごろに死去したといい、嘉靖年間(1522年 - 1566年)はほぼ晩年にあたる。また、八重山豊見親玄数(二男・祭金豊見親)の事績ではこの鬼虎征罸を「嘉靖之初」であったとする。さらに八重山守護職は、1500年のオヤケアカハチの乱後に次男・祭金が任じられており、その4年後には三男・知利真良豊見親に代えられたという。弘治年間は1488年 - 1505年。

 京阿波根

  • 尚真王は阿波根に命じてこの刀を京都の研ぎ師に研がせたが、研ぎ師はこれを偽物にすり替えて阿波根に渡した。帰国してからそれが発覚したため再び京都に戻り、3年の月日をかけてついに取り戻したという。これより阿波根は、「京阿波根(きょうあはごん)」と呼ばれるようになったという。京阿波根親雲上実基(きょうあはごん じっき)。

    嘉靖年間、王に一宝剣有り、名づけて治金丸と曰ふ。其の剣の常と異なるを以て、王、虞建極(京阿波根実基)をして京に赴きて之れを磨かしむ。(略)
    是れに由りて王、亦建極をして京に赴き宝剣を討還せしむ。建極、王命を奉じて再び京都に入り、逗留すること三年、心を尽くし力を竭し、多く奇計を用ひて宝剣を取得す。
    (球陽巻3 附 虞建極、二次、京に赴きて以て磨剣し並びに討還を為す。〔鄭〕)

    親雲上(ペーチン、または、ペークミー)は琉球王国の士族の称号のひとつ。

  • その後京阿波根の名声は高まり、また無私にして剛直な性格が災いして讒言に遭い、ついに首里城で暗殺されてしまった。その時の様子を描いた「球陽」の記述に「空手」でもって暗殺者の童子の両股(りょうもも)を折った様子が記されており、沖縄武術「(ティー)」の元祖ともされる。

    建極、手に寸鉄無く、但空手を以て童子の両股を折破し

    ただしこの「空手」が「からて」、「くうしゅ」、「くうて」のいずれの読みであるかは不明。またこの「空手」が現在の空手(からて)と伝系的につながりがあるのかも不明。

 耳切り坊主

  • 一説に、北谷王子が悪僧黒金座主をこの「治金丸」で斬殺し、その怨霊が沖縄民話の妖怪「耳切り坊主」になったとされる。詳細は「黒金座主」の項参照
    仲宗根豊見親が「治金丸」を献上した尚真王は、琉球王国第二尚氏王統の第3代国王で在位は1477年~1527年。黒金座主に登場する北谷王子朝騎は、第13代尚敬王(在位1713年~1751年)の弟。




  • 千代金丸」、「治金丸」、「北谷菜切」の三刀は古来沖縄に伝わる名刀として名高い。
  • また治金丸は別名「手金丸」といい、長い年月の間に「千代金丸」と入れ替わっている可能性が指摘されている。

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