江月宗玩

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江月宗玩(こうげつそうがん)  

安土桃山時代の臨済宗の僧
大徳寺第百五十六世
大梁興宗禅師

生涯  

天正2年(1574年)11月、堺の商人である天王寺屋津田宗及の子として生まれる。

幼名道丸、2歳で春松と改める。兄の津田宗凡が天王寺屋を継いだ。

天正7年(1579年)秋、春松は大徳寺107世の笑嶺宗訢に従って大徳寺に入り、宗丸と称した。

            半井慶友──半井云也  ┌半井卜養
                    ├───┴半井翠巖(翠巌宗珉)
【天王寺屋】           ┌南窓榮薰禪尼
津田宗柏─┬津田宗達──津田宗及─┼津田宗凡
     └津田道叱       └江月宗玩

天正8年(1580年)津田宗及は、亡き父宗達(江月の祖父にあたる人物)の菩提を弔うために大徳寺の春屋宗園を招き、大通庵を創建している。

天正10年(1582年)9歳のときに大徳寺に入り、春屋宗園(しゅんおくそうえん)大徳寺111世)に師事し、頭角を現す。天正12年(1584年)には春屋に従って南宗寺に入る。

南宗寺は三好長慶の依頼を受け、大徳寺90世の大林宗套(だいりん そうとう)三好氏の菩提寺として堺に開山した臨済宗大徳寺派の寺院。茶人の武野紹鴎千利休が修行をした縁の寺であり、堺の町衆文化の発展に寄与した寺院である。元は大徳寺76世の古嶽宗亘(こがく そうこう)が堺南荘にあった庵を南宗庵と名付けたのに始まる。法嗣の大徳寺88世傳庵宗器(でんあん そうき)に継がせるが、宗器が早世したためもうひとりの法嗣だった大林宗套を3代目(初代住持)とした。のち大徳寺107世笑嶺宗訢(しょうれい そうきん)が2代住持となっている。なお大坂冬の陣において、徳川家康が後藤基次に槍で刺されて落命したという伝説があり、境内には徳川家康のものと伝えられる墓が残る。

15歳の時に大徳寺大仙院で剃髪し、春屋により宗玩と改められた。天正17年(1589年)には春屋に伴われて聚光院に入り、慶長3年(1598年)大徳寺に戻る。慶長4年(1599年)石田三成の願いを受けて近江佐和山に瑞岩寺を創建、また黒田長政の帰依を受けている。

慶長11年(1606年)、黒田長政が黒田如水の菩提を弔うために大徳寺に龍光院を創建し、春屋宗園を招いている。

慶長16年(1611年)、師の春屋宗園が入寂すると大徳寺龍光院をつぎ、字を江月(江月宗玩)と改めている。

龍光院(りょうこういん、竜光院)は、初代筑前福岡藩主の黒田長政が父、如水の菩提を弔うために塔頭玉林院南に墓を立てたことに始まる。三回忌に合せて建立、開基されたのが龍光院である。開山は春屋宗園。龍光院の名は、如水の戒名(龍光院殿如水円清大居士)にちなむ。

慶長15年(1610年)11月に大徳寺156世となる。

元和7年(1621年)総見院を修営、また佐久間将監の請いにより寸松庵を創建した。9月には長政の請により博多崇福寺79世となる。元和8年(1622年)2月に退去。

その後、堺の南宗寺を経て、寛永9年(1632年)には松浦隆信の請により平戸の正宗寺の開祖となるなど名刹の住持を歴任し、江戸初期の大徳寺派禅僧の重鎮として活躍した。

寛永20年(1643年)10月朔日、遷化。

文化人  

当代一流の文化人として知られ、特にその書は沢庵宗彭、清巌宗渭とともに床掛けとして流行した。

茶人  

一方、茶の湯を父の津田宗及や小堀遠州に学んで造詣深く、千宗旦と親交して千家の復興をたすけ、大徳寺禅と千家茶道の結合に大きな足跡をのこした。

宗玩幼より茶湯を父宗及に學び、後小堀遠州に尋ねて奥旨を究め、書畫共に茶家の珍襲するところとなつた。

また住持を務めた龍光院には、津田宗及譲りの名物茶器である「曜変天目茶碗(国宝)」、「鶴首茶入(龍光院鶴首)」、「丸壺茶入(龍光院丸壷)」などが伝来した。

宗及没、嫡子宗凡継家督、宗凡没而無遺跡、大徳寺内龍光院江月和尚者宗凡弟也、家伝之茶器不残江月和尚江来り、于今龍光院ニアリ、此書モ其ノ内也
天王寺屋会記 木下俊長)

系譜  

平戸藩主松浦鎮信の愛刀である「寒暈刀」の命名者、大徳寺195世の翠巌宗珉(すいがん そうみん)は甥にあたる。

半井慶友(卜養軒慶友)の子、半井云也(卜養軒奇雲)が津田宗及の娘(南窓榮薰禪尼、宗玩の姉妹)を娶り、宗松と翠巖を設けた。
 翠巖の兄の宗松が、のち半井卜養と称し、寛文6年幕府の番医となり典薬頭を務めた。その傍ら松永貞徳に俳諧を学び、江戸俳壇の草分けとなる。

関連項目