松平不昧

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松平不昧(まつだいらふまい)  

松平治郷
出雲松江藩の第7代藩主

Table of Contents

生涯  

生まれ  

  • 直政系越前松平家宗家7代で、出雲松江藩の7代藩主。
    結城秀康─┬松平忠直──松平光長
         ├松平直政
         │  ├───松平綱隆─┬松平綱近 
         │久姫慶泰院      └松平吉透
         │              ├──松平宣維  伊達宗村──方子
         └松平忠昌──松平昌勝──清寿院   │           │
                            ├──松平宗衍──松平治郷不昧──松平斉恒
                   伏見宮邦永親王──光子
    
    
    
    松平直政は「亀甲貞宗」の逸話に登場する人物。出雲松江藩初代藩主。
  • 寛延4年(1751年)、6代藩主松平宗衍の次男として生まれる。
  • 明和4年(1767年)に父の隠居に伴い家督を継ぐ。将軍徳川家治からの偏諱と、祖父宣維の初名「直郷」の一字とにより治郷(はるさと)と名乗る。
  • 正室は仙台藩の6代藩主伊達宗村の娘せい姫(方子)。青楽院(靑に彡)。
    宝暦2年(1752年)1月16日生まれ、23歳の時に嫁ぐ。文政12年(1829年)10月13日没。伊達家から持参した鉢植えの松は家老柳多四郎兵衛の中屋敷で育ち、歴代藩主が楽山の別荘へ訪れる際に必ず立ち寄るようになったことから「舟つきの松」と呼ばれるようになった。昭和39年(1964年)に松江市の指定文化財となるが平成20年(2008年)に枯死した。同市では松を接ぎ木した「2世松」を同跡地の「旧野津邸」に植えに「舟つきの松公園」とするという。

松江藩改革  

  • この頃、松江藩は財政が破綻しており、周囲では「雲州様(松江藩の藩主)は恐らく滅亡するだろう」と囁かれるほどであった。
  • 家老の朝日茂保と共に藩政改革に乗り出し、積極的な農業政策の他に治水工事を行い、木綿や朝鮮人参、楮、櫨などの商品価値の高い特産品を栽培することで財政再建を試みた。しかしその反面で厳しい政策が行なわれ、それまでの借金を全て棒引き、藩札の使用禁止、厳しい倹約令、村役人などの特権行使の停止、年貢の徴収を四公六民から七公三民にするなどとした。これらの倹約、引き締め政策を踏まえ、安永7年(1778年)に井上恵助による防砂林事業が完成、天明5年(1785年)の清原太兵衛による佐陀川の治水事業も完了し、これらの政策で藩の財政改革は成功した。これにより空になっていた藩の金蔵に多くの金が蓄えられたと言われる。
  • ただし、財政が再建されて潤った後、茶人としての才能に優れていた治郷は、1500両もする天下の名器「油屋肩衝」をはじめ、300両から2000両もする茶器を多く購入するなど散財した。このため、藩の財政は再び一気に悪化した。
  • 文化3年3月11日(1806年4月29日)、家督を長男の斉恒に譲って隠居し、不昧と号した。
  • 文政元年4月24日(1818年5月28日)に死去した。享年68。

茶人大名  

  • 茶人としての才能は一流であり、石州流を学んだ後に自ら不昧流を建てた。
  • さらには「古今名物類聚」や「瀬戸陶器濫觴」など、多くの茶器に関する著書を残している。
  • 治郷によって築かれた茶室は、菅田菴(寛政2年(1790年)築、国の重要文化財)や塩見縄手の明々庵(安永8年(1779年)築)に現存する。
  • 治郷の収集した茶器の銘品・銘菓(山川・若草など)は「不昧公御好み」として現在にも伝えられ、松江市が今もって文化の街として評される礎となったことは、現代までに至る治郷の功績である。

逸話  

武芸  

  • 武芸にも堪能で、松江藩の御流儀である不伝流居相(居合)を極め、不伝流に新たな工夫を加えた。
  • 藩士にも熱心に武芸を奨励し、幕府から何か野心があるかと嫌疑をかけられるほどであったという。

倹約令への反発  

  • また幕府より倹約令が出されるとその過剰さに反発し、ある時鞘を金溜め塗とし、鍔、縁頭などをすべて金鍍金にして大小拵えを新調して登城した。
  • すると幕閣から「令達に対していかなる所存か」と咎められるが、これに対して「これはことごとく金メッキでござって真金ではござらぬ。凡そ武士たるものが武士の魂たる佩刀を飾る儀は武士の嗜みとして苦しからざることと存ずる」というと幕閣も反論の余地なく、その後はお咎めがなかったという。
  • のち備前の池田侯がこれを真似して正金で新調したが、(正金のため)重くて困ると話した逸話が残る。

相撲  

  • 当時相撲が流行し諸大名が力士を抱えることが流行った。出雲藩では雷電為右衛門を士分に取り立てたことでも知られる。雷電以外にも多数を召し抱え、幕の内の西の方は大半が出雲藩召し抱えの力士が占めたという。
  • 雷電部屋では、36代大関の釋迦ヶ嶽雲右エ門やその実弟の稲妻咲右エ門も大関であり、大相撲史上初の兄弟幕内力士でもある。釋迦ヶ嶽雲右エ門は安永2年(1773年)に後桜町天皇から召されて関白殿上人らの居並ぶ中で拝謁して土俵入りを披露し、褒美として天皇の冠に附ける緒2本が与えられた。不昧は神棚を設けてこれを祀ったが、釋迦ヶ嶽雲右エ門が死んだ時にこの神棚が激しい音を立てて揺れ動いたため、気味が悪いということで出雲大社に納めさせたという。

備前大一文字の薙刀  

  • 越後流の達人で、本多随翁(本多忠永)から金二百両で譲り受けたもので、名物として大切に秘蔵し、また参勤交代の際にも常に携帯したという。
  • 9代藩主松平斉斎(齊齋。不昧の孫)の頃まで伝わっていたが、その死後側室の手に渡り、いつしか所在不明となったという。
    本多忠永は伊勢神戸藩の2代藩主。神戸藩本多家3代。随翁、長月庵と称し、茶人大名として松平不昧と交流があった。
     忠永の父は初代藩主本多忠統(猗蘭侯、茶人号宗範)で、享保10年(1725年)に若年寄。延享4年(1747年)に江戸城内で肥後熊本藩主・細川宗孝が板倉勝該に斬殺される事件が起こった際には、事件の解決や細川氏存続に尽力している。

金魚  

  • 金魚を愛し、部屋の天井に硝子を張って肱枕で金魚を眺めた、金魚の色変わりについて藩士を他国に派遣してその秘法を会得させた、などとも伝えられる。

関連項目