斎藤妙椿

斎藤妙椿(さいとうみょうちん)  

室町時代~戦国時代にかけての武将
美濃守護代斎藤宗円の子
持是院
従三位権大僧都

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概要  

  • 斎藤妙椿は、美濃守護代斎藤宗円の子で美濃守護代3代斎藤利永の弟にあたる。
  • 応永18年(1411年)の生れで、幼少時から出家したため妙椿の実名は不明。

美濃土岐氏  

【美濃源氏土岐氏】
    北条貞時娘 【土岐氏惣領】
       ├─┬頼貞─┬頼清─┬頼康
土岐光行─┬光定 │   │   │          【土岐世保家】   
     │   │   └頼遠 ├揖斐頼雄─┬康行───康政──持頼──政康
     │   └蜂屋定親   │     └島田満貞
     │           │
     │【饗庭氏】      │【土岐西池田家】
     └饗庭光俊       └頼忠──┬頼益────持益
                      ├西郷頼音【三河西郷氏】
                      ├鷲巣之康
                      └大桑頼名─佐良木光俊─成頼?

  • 美濃の土岐氏は、外祖父に北条貞時を持つ土岐頼貞(1271-1339年)が有力御家人として重用され、建武の親政時には美濃守護となる。婆沙羅大名の頼遠(-1342年)を挟んで孫の頼康(1318-1388年)の代には尾張・伊勢を加えた三カ国の守護となるが、跡を継いだ康行(-1404年)は将軍義満の挑発に乗り、幕府軍の追討を受け没落する(土岐康行の乱)。
  • 一族の中で唯一義満方についた頼康の末弟の頼忠(1323-1397年。土岐西池田氏)が主流となるが、一族の力は衰え、国人の富島氏や斎藤氏を守護代として重用するようになる。

父:斎藤入道宗円  

       土岐持益──┰土岐持兼──亀寿丸
             ┗土岐成頼
               ├────┬土岐政房───┬土岐頼武
斎藤入道宗円──┬斎藤利永─┬妙純妹  └土岐元頼   └土岐頼芸
        │     ├斎藤利藤
        └斎藤妙椿 └斎藤妙純

  • 妙椿の父、斎藤入道宗円は美濃守護土岐氏の重臣斎藤祐具の子で、康応元年(1389年)生れ。
  • 文安元年(1444年)閏6月19日に京都の土岐屋形において土岐氏の守護代である富島氏を殺害する(美濃錯乱)。
  • 美濃においても戦闘状態となるが、守護土岐持益及び宗円が着陣すると戦闘は小康状態となり、この後斎藤入道宗円は富島氏に替わり美濃守護代となる。
  • 文安3年(1446年)7月5日、宗円は守護方の軍勢を率いて垂井付近の富島氏の陣を攻め、討死する者数百人という激戦を展開している。
  • 宝徳2年(1450年)9月1日、京都の山名氏邸から守護代邸に帰る途中、近衛油小路で富島氏の手の者により暗殺された。

兄:斎藤利永  

  • 宝徳2年(1450年)に斎藤入道宗円が殺害されると、妙椿の兄である斎藤利永は、暗殺の首謀者である富島氏・長江氏と戦い討ち滅ぼし、まもなく守護代となっている。
  • 康正元年(1455年)に土岐持益の嫡子持兼が亡くなると、持益は、孫で持兼の庶子亀寿丸(当時3歳)を推すが、斎藤利永はこれを拒否し、翌康正2年(1456年)まだ壮年の持益を隠居させ、娘婿である土岐成頼を守護職に据えた
    土岐成頼については、土岐支流の饗庭氏、または持益の従兄弟にあたる佐良木光俊の子、あるいは一色氏出身という。

    土岐成頼の妻は、斎藤利永の娘(妙純の妹)。斎藤利永は長禄4年(1460年)5月に死亡し、守護代(惣領家当主)は嫡男斎藤利藤(妙純の兄)が継いでいる。斎藤妙椿は甥の後見をしたとされる。
  • 長禄4年(1460年)、中風を患い死去。

生涯  

還俗・甥の後見  

  • 斎藤妙椿は長らく僧として生きていたが、長禄4年(1460年)に兄の利永が亡くなると、甥である新守護代斎藤利藤を後見するために加納城へ移り、ここにも持仏堂と居庵を設けて持是院と称した。

美濃支配  

  • 応仁元年(1467年)に起こった応仁の乱では美濃土岐家は西軍に加わっている。
  • 守護土岐成頼が京都に滞陣するなか、斎藤妙椿は兵を率いて東軍に加わった富島氏・長江氏、さらに近江から来援した京極氏らと戦いこれを破り、応仁2年(1468年)までに美濃を平定することに成功する。同時に多くの荘園を押領して主家の土岐氏を凌駕する勢力を築いた。

近隣への出兵  

  • さらに近江・越前・尾張へ進出し、美濃守護土岐成頼の被官でありながら、事実上美濃の支配者となる。※実際には甥の利藤が美濃守護代で、妙椿はその後見。
  • 文明元年(1469年)夏には近江国内へ進攻して西軍の六角高頼を援護するため、敵対する東軍の京極政経と守護代多賀高忠軍を文明3年(1471年)2月、文明4年(1472年)9月の2度に渡って撃破している。
    多賀高忠は近江京極氏の重臣で、室町幕府京都侍所所司代を務めた人物。名物庖丁藤四郎」、「骨喰藤四郎」、「豊後藤四郎」の逸話に登場する。
  • 文明5年(1473年)10月には長野氏を援護するため伊勢へ出兵し、東軍の梅戸城を落城させている。さらに文明6年(1474年)6月には、越前に赴いて朝倉孝景、甲斐敏光の両者を調定の末に和解させた。
  • 文明9年(1477年)に京都で厭戦気分が広がり、守護土岐成頼は足利義視・義材父子を連れて美濃に下国している。

室町幕府奉公衆  

  • 後に室町幕府奉公衆となり、官位も主君である土岐成頼の従五位下を超えて従三位権大僧都に昇っている。
  • 文明11年(1479年)2月に隠退し、翌文明12年(1480年)2月21日に腫れ物を患い死去した。

文化人  

  • 斎藤妙椿は一方で文化人の側面もあり、一条兼良や東常縁、宗祇、万里集九、専順ら一流の文化人とも親交があった。

一条兼良  

  • 一条兼良は応仁の乱の最中の文明2年(1470年)に関白を辞すと、文明5年(1473年)に妙椿に招かれ美濃に下り連歌百韻に参加している。

東常縁  

  • また、美濃篠脇城主東常縁は享徳の乱で、8代将軍足利義政の命を受け堀越公方側として関東を転戦している。応仁の乱勃発時にも遠く下総に居り、美濃の所領には兄である東氏数がいた。東氏数は富島氏と通じていると見なされて妙椿の攻撃を受け逃亡、所領は妙椿に占領されてしまった。東常縁はこれを悲しみ歌に詠んだところ、この歌が人伝いに妙椿に伝わり、常縁が直接自分に歌を送ったならば所領を返還しようと言い、その後、2人の間で歌の応答があり、所領返還が決まったという。

宗祇  

  • 宗祇も、応仁の乱中しばしば美濃を訪れ連歌の会を催している。
    和歌の古今伝授は、戦国時代には二条家が伝えており、二条為世から頓阿を通じて、東常縁へと伝わっていた。のち東常縁は宗祇へ、さらに宗祇から三条西実隆へと伝授を行う。この三条西実隆とは上記美濃斎藤氏系図に登場している人物で、甘露寺家を通じて間接的に斎藤妙純とも繋がる。三条西実隆の孫である実枝は、子の公国が幼かったために細川幽斎へと返し伝授を約束させた上で伝授を行った。慶長5年(1600年)の関が原の前哨戦で細川幽斎が田辺城に囲まれた際、古今伝授が途絶えることを惜しんだ朝廷は、三条西実条、中院通勝、烏丸光広の3名を勅使として派遣し、幽斎の身柄を保護して開城させた。この時烏丸光広に贈られたのが、現国宝古今伝授の太刀」である。

持是院家(じぜいんけ)  

  • 斎藤妙椿が興した持是院家は、甥の斎藤妙純が継ぎ、その子と孫が継ぐが断絶した。
    斎藤妙椿━斎藤妙純─斎藤利親(妙親)─又四郎─彦四郎─斎藤利良(妙全)

関連項目