平治の乱


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 平治の乱(へいじのらん)

平治元(1159)年、保元の乱の恩賞に不満を抱く源義朝と、藤原信西に反感を抱く公家(藤原信頼、藤原経宗、藤原推方)が引き起こした乱。

 経緯

  • 保元元年(1156年)の保元の乱に勝利した後白河天皇は、側近となった信西を重用し荘園整理令を中心とした「保元新制」を発令する。

 平氏の台頭

  • 信西は、荘園整理、荘官・百姓の取り締まり、神人・悪僧の統制、戦乱で荒廃した京都の治安維持のために平清盛とその一族を厚遇し、その結果平氏は清盛が播磨守、頼盛が安芸守、教盛が淡路守、経盛が常陸介と兄弟で四ヶ国の受領を占め勢力拡大に成功する。
  • とくに大和においては興福寺の所領が充満しており、これまで国検をしようとしても神人・悪僧の抵抗によりことごとく失敗に終わっていた。
  • 清盛は武力を背景に国検を断行する一方、寺社勢力の特権もある程度は認めるなど柔軟な対応で、大和の知行国支配を行った。さらに清盛は大宰大弐に就任することで日宋貿易に深く関与することになり、経済的実力を高めた。

 二条親政派の攻勢

  • 鳥羽法皇から荘園の大半を相続して最大の荘園領主となっていた美福門院を中心に東宮・守仁の擁立を図るグループは、自らの養子・守仁の即位を信西に要求する。
  • 信西も美福門院の要求を拒むことはできず、保元3年(1158年)8月4日後白河天皇は守仁親王(二条天皇)に譲位する。
  • こうして後白河院政派と二条親政派の対立が始まる。二条親政派は藤原経宗(二条の伯父)・藤原惟方(二条の乳兄弟、記録所の弁官の一人)が中心となり、美福門院の支援を背景に後白河の政治活動を抑圧する。一方後白河は近衛天皇急死により突然皇位を継いだこともあり、権力基盤が脆く、自らの院政を支える近臣の育成が急務となった。

 信頼の登場

  • ここで抜擢されたのが武蔵守藤原信頼であり、信頼は保元2年(1157年)3月に右近権中将になると、10月に蔵人頭、翌年2月に参議・皇后宮権亮、8月に権中納言、11月に検非違使別当と急速に昇進する。もともと信頼の一門は武蔵・陸奥を知行国としており、両国と深いつながりを持つ源義朝と連携していた。
  • 保元3年(1158年)8月に後白河院庁が開設されると、信頼は院の軍馬を管理する厩別当に就任する。義朝は宮中の軍馬を管理する左馬頭であり、両者の同盟関係はさらに強固となった。
  • こうして形成された諸派閥のうち、信西一門の政治主導に対する反発により二条親政派と後白河院政派が打倒信西で一致することになる。

 乱の推移

  • 信西の軍事力を支える平清盛が、平氏一族を引き連れ熊野詣に向かった隙を突き、信西派は挙兵する。
  • 後白河上皇と二条天皇を幽閉し、内裏を占拠。翌日には信西の子息(俊憲・貞憲・成憲・脩憲)が逮捕され入るが決定する。藤原信西は山城国田原に逃れるが、逃げ切れないと悟り、郎等の藤原師光(西光)らに命じて自害し、自らを地中に埋めさせた。

 清盛の反攻

  • 平清盛は、この乱を紀伊国で知り一度は九州へ落ち延びることを考えるが、紀伊の武士・湯浅宗重や熊野別当・湛快の協力により、途中伊賀・伊勢の郎党も合流して帰京する。
  • 一方、義朝はクーデターのため隠密裏に少人数の軍勢を集めたに過ぎず、合戦を想定していなかったため、京都の軍事バランスは一気に逆転する。
  • 後白河法王は仁和寺に脱出、さらに二条天皇も内裏を出て清盛の邸である六波羅へと移動する。これに伴って公卿・諸大夫が続々と六波羅に集結したことで平清盛は一気に官軍となり、遂に藤原信頼・源義朝の追討宣旨が下されることとなった。
  • その後内通者(経宗、推方)が出たこともあり、源氏は総崩れとなって東国に落ち延びることになる。

 その後

  • 源氏保元の乱、平治の乱を経て壊滅的な状況になる。
  • 伊豆に流された源頼朝が決起するまで、京都では平清盛を中心とする平氏の天下が続く。

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