山姥切国広


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 山姥切国広(やまんばぎりくにひろ)


堀川国広
銘 表「九州日向住国広作」、裏「天正十八年庚寅弐月吉日 平顕長」
山姥切国広 やまうばぎりくにひろ
二尺三寸三分(長70.6cm、反2.8cm)
重要文化財
足利市民文化財団

Table of Contents

 作刀

  • 堀川国広の作
  • 表裏に棒樋をかきとおし、鋩子乱れ込み掃きかける。
  • なかごうぶ。先栗尻、目釘孔1個。
  • 表の目釘孔の下中央に細鏨で長銘、裏も同じく年紀および所持銘が入る。

 由来

  • 足利城主長尾顕長の依頼を受け、顕長所有の備前長船長義の刀を写して打ったもの。
  • 出来が素晴らしく、特に「山姥切国広」と呼ばれる。
  • 山姥切」の由来は不明。

    足利城主長尾顕長のために鍛刀したもので、かつて顕長が北条氏直から拝領した備前長船長義の刀を写したものと伝える。下野国足利において鍛刀したものと推せられ、いわゆる国広の天正打といわれる刀の中で、最も出来の優れた一口。山姥切のいわれは不明である。
    重要文化財解説文)

  • つまり、長尾顕長が北条氏政から拝領した長義作の”「山姥切」の写し”を、堀川国広に依頼してできあがったのが「山姥切国広」となる。
    • 堀川国広は「新刀の祖」と呼ばれるほどの名工で数多くの弟子を輩出したが、この足利滞在中の「山姥切国広」は国広作中第一の傑作として名高い。

 来歴

 長尾顕長

  • 元は長尾顕長が関東を訪れていた堀川国広に依頼して打たせたもの。

 石原甚左衛門

  • 小田原落城後、長尾顕長も領地を没収され、刀は北条家遺臣の石原甚五左衛門の手に渡る。
    石原が信州へ行く途中、小諸で妻が産気づき、山中の老婆に妻を預け薬を求めて出かけた。石原が戻ると、産み落とした嬰児を老婆が食べていたので、驚いた石原が国広の刀で斬りつけると虚空へ消えていったという。

 渥美平八郎

  • のち関ヶ原の際に石原は井伊家の陣に加わっており、同家の渥美平八郎が刀を折ってしまい困っていたのでこれを与えている。
    石原甚五左衛門家は400石。渥美平八郎家は正法念流未来記兵法憲法を学び、子孫師範役となり代々平八郎を名乗り三百石を領す。母衣役、物頭に至る。

 転々

  • 明治維新後、渥美家から彦根長曽根の北村醤油屋に質に入れ流してしまう。それを旧藩士の三居某が買い取り秘蔵する。
    百五十石の三居(みつい)孫太夫家という藩士が存在するが関係は不明。この三居孫太夫の家系に、井伊直弼の茶友であった一通紫水軒というものがいる。井伊直弼の書状で「三居紫水軒宛」と残っているのはこの人物のことである。直弼との間には面白い逸話が残されており、三田村鳶魚の「井伊大老の家族」に収録されている。青空文庫にも未収録だが、網迫の「質より量」様で見ることができる。

 井伊家

  • 大正9年(1920年)、国宝審査員杉原祥造が押形を取っている。この時は井伊家にあったという。

 関東大震災での「焼失」

  • その後、関東大震災で焼失したとされ、山姥切国広は長らく行方不明とされていた。
  • のちに井伊家よりある旧臣に与えられていたことが判明するが、このことから大正から昭和初期の刀剣書では、山姥切国広は「焼失」となっている。
    文化財登録でも、「江戸時代に彦根藩主井伊家に伝来し、大正震災に焼失したといわれていた。」と記載されている。
  • しかし昭和35年(1960年)の秋になって、旧臣の子孫がお金に困ったため旧主家である井伊家に買い取り方を願い出て、井伊家から本間氏に相談が来たことから、所在が判明することとなった。※つまり40年間ほど行方不明(焼失)だったことになる。
  • この、焼失とされた刀が再度確認された経緯については本間氏、佐藤氏がそれぞれ詳しく書いており、刀剣界の著名人により焼失確認と再発見が行われた珍しいケースであるため、少し長いが引用する。※尤も、2人だけではなく当時の刀剣界においての共通認識であった。

     この刀を「山姥切国広と呼んでいます。そういうと山姥を切った刀のように思われやすいけれども、そうではなく、その本科である長義の刀それ自体を山姥切といったものらしいのです。そして、その刀を写した刀なので、山姥切国広と呼ぶべきものと解釈していいと思います。
     その昔、私(佐藤寒山)が「国広大鑑」を書いたときに、(略)そのときの話では昔、井伊家に山姥切という国広があって、それが残念なことに、大正の大震災で焼けてしまったということでした。そして杉原祥造さんのとった押形が残っている以外、何の資料もないということでした。「国広大鑑」には、杉原祥造さんの押形を入れ、これは井伊家に伝来したものだけれども、大正の大震災で焼失してしまったという説明を書いたわけです。それは私一人がそう思っていたのではなくて、本間氏(本間薫山)を始め、ほかの人々も全部そう思い、そう伝えていたんです。
     ところが、今から十何年か前に、ひょっこり出てきました。どのようにして出てきたかというと、本間先生のところに井伊さんの家臣がやってきて、「こういう国広の刀があって、それを井伊家に買ってくれといって持ってきたけれども、どうしたものだろうか」という相談があったそうです。それは面白い話だ、その刀は是非拝見したいというわけで、私も拝見しましたが、紛うかたなき山姥切国広です。
     これはどうしたわけかときいたところでは、おそらく杉原祥造さんが見た直後だろうと思いますが、震災前に井伊家のために、いろいろ世話してくれた旧家臣の方があって、井伊さんから御褒美にくれたのだそうです。ところが、その人は全く刀には関心のない人で、戦前も、戦後も全くわからないままにすぎたのですが、子孫が家を建てるとかなんとかで、もと井伊家から頂戴したものだから、井伊家に買ってくれといって持ってきたというわけです。

     ところでこの刀は、もと彦根藩主の井伊家にあったものであるが、東京大震災の折に、井伊家の蔵が焼けおちた為に、山姥切も焼けてしまったという話になっていた。嘗って国広大鑑を発行するに当っても、杉原氏の押形を掲げ、大正震災で焼失した旨を註記した。ところが昭和丗五年の秋になって、この刀の無事現存することを知らせてくれたのが薫山であった。

 高橋経美→伊勢寅彦

  • これを名古屋の愛刀家高橋経美氏が買い取るが、かねてよりの約束があったため、日本相撲協会映画部で国広を多く蒐集した伊勢寅彦に国広を譲り、伊勢氏が所持したという。※伊勢氏は代わりに虎徹を譲ったという。

     この時、偶然にも薫山(本間順治)の話を私(佐藤寒山)と一緒に聞いていたのが伊勢さんで、若しそれが出るような時には是非何とかお話し願いたいということであった。
     その後、昭和三十六年の二月になって、名古屋の岡島支部長にあったところ、名古屋支部の高橋経美氏が近頃山姥切という国広の名刀を手に入れられて大変な自慢であると云う話を聞いてびっくりした。その時もまた伊勢さんが居合せて、この話を聞いてサッと顔色をかえられた。
     これは伊勢さんと高橋さんとは古くからの知合いで、いつか私ども数人で夕食をともにした時、高橋さんが、自分は今一生懸命で虎徹一門の刀を集めている。何とか一生の間に何十本かの虎徹を集めたいと思う。ついては若し伊勢さんの方で虎徹が手に入るようなことがあれば何とか割愛して頂きたい。そのかわり自分の方で堀川一門の作が見つかったら全部伊勢さんの方にお廻しするから宜しくということであった。その時は我々一同もそれは面白いと大賛成をしたわけである。
     その後伊勢さんは虎徹の「ハネトラ」銘の刀を一本高橋さんに割愛したことがあった。伊勢・高橋両氏の間にこういう約束のあることを知らない岡島さんは、全く様子がわからず、ただただ伊勢さんの見幕に圧倒される有様であった。その後、高橋さんも男の約束として、ついにこの山姥切を伊勢さんに進呈するということになり、伊勢さんも立派な拵えのついている寛文五年の年紀のある国藤虎徹と号する脇指及び長曽祢興正の傑作の脇指を贈り、更に重要文化財に指定されている生ぶ茎在銘の雲生の太刀をも添えて高橋さんに贈った。これは全く前代未聞のことで、傍にいる我々も驚いてしまった次第である。

    引用冒頭の「この時」とは、上記した”昭和35年(1960年)になって(略)井伊家から本間氏に相談が来た”時のことである。この時、相談者が本間氏に相談に訪れたあと、(電話連絡で)刀の手入れを佐藤氏がすることになったようで、その連絡だけがあったのだという。その電話連絡時に伊勢氏も佐藤氏の所にいたようだ。しかしこの手入れの話は流れてしまい、その後名古屋支部での話となりその時もたまたま伊勢氏が同席していたということになる。

    この高橋経美氏とは、昭和前期に中部財界の大物として知られた人物。東海テレビ事業会長、高橋組会長(創業者)、東通会長(創業者)など10を超える企業の役員を兼ね、一時は名古屋一の高額所得者になったこともあり、ゴルフ趣味のほかボクシングも愛好し後援者として知られた。

  • 改めて整理すると、次のようになる。
  1. 昭和35年(1960年)の秋に井伊家から本間氏に相談があり現存が判明
  2. その時に手入れは佐藤氏(の取次?)ですることになったがその話は音沙汰が無くなった
  3. 翌昭和36年(1961年)2月に名古屋支部で高橋氏が所持していることが判明
    ※この間、多く見ても半年ほどの間しかなく、井伊家では山姥切だと判明してまもなく手放していたことになる。
  4. 男の約束で交換となり、伊勢氏が入手
  • 昭和37年(1962年)の「堀川国広とその弟子」でも(当然)伊勢寅彦氏蔵。
    この「堀川国広とその弟子」は、佐藤貫一こと寒山氏が、伊勢氏所蔵の堀川一門の刀剣の一覧を出版することを勧めて実現したものである。出版者は伊勢寅彦。
  • 伊勢氏は、同書の「挨拶にかえて」で以下のように述べている。※氏の来歴もわかるため長いが引用する。

       挨 拶 に か え て
     私は徳川将軍家の牙城である江戸に生まれ、そして江戸に育ちました。私の家は代々徳川家の旗本で、私も幼年の頃から刀剣が何より好きでありました。それはなんと申しましても先祖に対する敬慕と申しますか、旗本というものに対する郷愁とでも申しますか、今の若い人達とは全く異なった環境の中に生きて参りました。それが私の刀好きとなる遠因とでも申しましょうか、何かそういったものを背負ってこの世に生まれ出たようなものです。又青年時代にお世話になり、いろいろ薫陶を受けた嘉納健治先生や岩田愛之助先生のお刀好きの影響を受けたことも少なしとは致しません。
    (中略)
     私は二十数年来、財団法人日本相撲協会に席を置き、映画部主任として相撲映画を担当していますが、こういった特殊な環境にいる関係もあって日本刀の中でも特に堀川一門の作刀に強く心をひかれています。と申しますのは相撲部屋の盛衰はかかってよい親方がいるかいないかによります。よい親方がおれば必ず優秀な弟子が育成され、その部屋の隆盛はもとよりのことですが、自然相撲界全体が繁栄致すものであることは皆様も既に御承知のことと存じます。
     堀川国廣はいわばこの相撲部屋の大親方とも申すべき立場におかれた刀工で、武家出身ということもあって、いささかも世の毀誉褒貶にかかわらず超然として我が信ずる鍛刀の道に精進し、しかも一門に最も優秀な弟子達を数多く養成しています。
    (中略)
     こうして堀川物の蒐集を始めてから既に十余年の歳月が経ちました。しかしそれらの作刀には数の上に制限があり、経済的にも制約があって、蒐集も思うにまかせません。従って手あたり次第、好きだから集めたというだけで自慢のできるようなものは何もありません。しかし永い間に蒐集したものがいつの間にか四十余口となりました。とにかく国広とその弟子達の作刀がほぼ一通りは揃っています。(中略)従って私は私なりに、これらの蒐集刀をこよなく愛しております。これは決して人様に誇り得るようなものではありませんが、殊に子供もいない私にはこの上ない愛情をこれらの刀に注ぎ、離し難い愛惜を感ずるのであります。この中で山姥切国広は知友高橋経美君に無理を申して割愛して頂いたもので、折角御自慢のものを取り上げて相済まなかったと考えておりますが、これも堀川物につかれた男の仕儀として御海容願いたいと思います。
     この蒐集刀を一冊に纏めて一般愛刀家や研究家に頒ってはというおすすめを幾度か寒山先生から頂きましたが、今日までまことに面映ゆいことと思って辞退して参ったのであります。ところが寒山先生にはかねて国広大鑑補遺を出版したいというお考えがあり、その機も愈々熟した様子を承わり、同時に私も還暦を迎えましたのでこの辺でもう一度子供にかえったつもりで嬉しさをありのままに、恥を偲んで出版に踏み切ったわけであります。
    (中略)
     
     昭和丗七年五月五日
               谷中初音の寓居に於て
                 伊  勢  寅  彦 識

  • 昭和39年(1964年)も伊勢寅彦氏蔵。
  • 昭和41年(1966年)刊行の「日本の美術 Vol.6 刀剣」佐藤寒山編でも伊勢寅彦氏蔵。
  • 昭和55年(1980年)の「国宝重要文化財総合目録」でも伊勢寅彦氏蔵。※伊勢氏は昭和46年(1971年)5月死去。
  • その後は個人所蔵。

 足利市による取得検討(2022年)

 足利市の取得計画「山姥切国広 縷縷(るる)プロジェクト」

  • 取得予定金額は3億円、取得団体は公益財団法人足利市民文化財団。
    • ※うち2億円は公益財団法人足利市民文化財団
    • ※うち1億円は足利市によるクラウドファンディング及びふるさと納税を予定
    • ※「足利市民文化財団」は、いわゆる「布袋国広(夢香梅里多)」も所蔵している。
  • 報道によれば、下記スケジュールとなっている。
  1. 2023年8月21日(月) 15:00 特設WEBサイトオープン
  2. 2023年9月1日(金) 15:00 クラウドファンディング等の支援募集開始
  3. 2023年10月31日23:59 クラウドファンディング終了
    目標金額 100,000,000円であったが、寄付総額は125,832,000円。寄付者4,613人となった。
  4. 2023年11月1日~2024年3月末までに、売買契約締結
  5. 2025年1~3月頃 特別展、内覧会の開催予定




  • 縷縷プロジェクトの支援概要(2024年3月7日発表の足利市のプレスリリースより)
  1. 【クラウドファンディング】:
    ・実施期間:2023年9月1日~10月31日
    ・支援額:1億2,586万2,000円(4,614名)
  2. 【ふるさと納税】:
    ・実施期間:2023年9月1日~12月31日
    ・支援額:1,352万6,000円(1,042名)
  3. 【寄付(企業・団体)】:
    ・実施期間:2023年9月1日~12月31日
    ・支援額:2,332万5,000円(81団体)
  4. 【寄付(個人)】:
    ・実施期間:2023年9月1日~12月31日
    ・支援額:742万4,000円(48名)
  • 総額1億7013万7000円より必要経費3923万4000円を除いた1億3090万3000円から、1億円を取得費用の一部として拠出、残額(3090万3000円)については刀剣「山姥切国広」の維持管理及び適切な保存環境の整備等に活用される。




  1. 2024年2月23日売買契約締結
    購入額のうち、財団が2億円を資金から捻出し、残る1億円は市がクラウドファンディング(CF)やふるさと納税で募った寄付金を充てた。CFなどには全国から計1億7013万7千円が集まった。CFの手数料など必要経費3923万4千円を除いた1億3090万3千円のうち、1億円を購入費に充て、残金は刀の維持管理に活用する予定。
     ※つまり購入額は3億円(うち1億円がクラウドファンディングやふるさと納税分)。
  2. 2024年3月6日付で支払い手続き完了し、所有権移転(取得)
  3. 既に引き渡しを受け、市内施設で保管中


 号「山姥切」について

詳細を表示
  • 山姥切」という号がもともと長義作のものについていたのか?については、確たる根拠となる江戸時代以前の記録が残っていない。※伝来した尾張家の「尾張徳川家御腰物」にも記載がない。
    なお長義作の山姥切を所蔵する徳川美術館では、「尾張家蔵帳には、本刀が山姥切本歌との記述はありません」と断ったうえで、長義作の山姥切を「山姥切国広の本歌」と扱っている。
     また「日本の美術 Vol.6 刀剣」佐藤寒山編(1966年至文堂)においては、「山姥切の号は本来は、この長義の異名であったが、それを写したことから、山姥切国広と名づけられたものである。」としている。
  • ただしいくつかの理由があり、まず長義作のものに「山姥切」という号がつけられ、その後国広がその「山姥切」を写したと考えられる。
  • 1.化け物を斬ったという号はほとんど古刀にしかつかない
    • 新刀の祖」と称される堀川国広を始めとして、慶長以降に作刀された新刀に分類される肥前忠吉津田助広虎徹井上真改などの作にも切れ味を示す号はいくつか存在するが、その中で鬼や大蛇など想像上の生物を斬ったといういわれを持つものはない。
    • これは、新刀登場直前の戦国時代には実際に人を斬る機会が増えたことや、さらに戦国末期に登場した死体での試し斬りが元和偃武以降は「御様御用」として確立・制度化したことも挙げられる。この頃にはいわゆる「截断銘」も、化け物を斬ったということではなく、「二ツ胴」「四ッ胴」など、どれくらい人を斬ることができるかという実用本位なものへ変化していったためと思われる。
    • また、室町時代には急速な農業・商工業の発展があり、国(現在の県)をまたぐような流通、貨幣経済の浸透や中華文明以外のヨーロッパ文明の伝来などがあり、さらに信長・秀吉の天下統一により人々の意識・価値観が大きく変わったことも影響している。
      映画「もののけ姫」で最初恐ろしげだったシシ神の森が、ディダラボッチが倒れ風が吹き去った後には優しげな山に生まれ変わったのと同じであり、このことは逆に身近なものであっても一つ一つに神が宿っており物を粗末にしてはならないと戒める風潮(付喪神)をも生み出している。
  • 2.国広作に先に「山姥切」とついたのであれば、長義作は「山姥切長義」となったはず
    • 号のある長義作は、「八文字長義」「六股長義」など”長義”という刀工を表す語がついており、それがつかないのはこの「山姥切」くらいである。これは「山姥切国広」の由来が銘により確かであったため、元の長義作には「山姥切長義」のように刀工を加えなくとも区別できたためと考えられる。
    • いっぽう国広作で号で呼ばれるのはこの「山姥切」の写しくらいである。重要文化財の「加藤国広」(三井記念美術館所蔵)があるが、これは加藤清正が所持したことにちなむ人名由来の号であり、江戸時代に入ってからの号・名物名にはこの人名由来(持ち主の領地や官名)が非常に多い。
  • 3.文化財登録時に「山姥切」と号が登録されていないのは享保名物帳所載ではないため
    • 現在「名物○○」と指定されているものは、ほぼ享保名物帳所載によるためであり、所載されていないもので名物名や号が登録されているものは慶長以前からの名物などよほどの御家名物である。
      文化庁の文化遺産データベースで、フリーワードに「名物」、分野に「工芸」と入れて検索すれば、ほとんどの”名物”名付きの刀剣類が検索できる。
    • 長義作「山姥切」のように、一般に号で呼ばれるにも関わらず文化財指定ではそれが書かれないものとしては下記がある。いずれも享保名物帳には載っておらず文化財指定にも「名物」表記は入らない。

      高麗鶴光忠 文化遺産DB
      [指定名]:刀〈無銘伝光忠/高麗鶴と金象嵌在銘〉
      城和泉正宗 文化遺産DB
      [指定名]:刀〈金象嵌銘城和泉守所持/正宗磨上本阿(花押)〉

  • これらが文化財登録に「名物」と記載されないのは「享保名物帳」の影響によるものであり、長義作の「山姥切」は享保名物帳所載ではないため名物表記がないのは当然とも言える。
    ※「享保名物帳」に載っていないから名刀でないということでは決してない。名物帳は本阿弥家の押形名鑑という意味合いが強く、上杉家のように各大名家で秘蔵した名物は所載されていない。そもそも現在国宝・重文に指定される刀剣類約800のうち名物と指定または判断できるのはおよそ1割程度であり、さらに新刀国宝指定されたものもない。
  • なお、享保名物帳古刀のみで構成されており、国広を始めとした新刀は含まれない。新刀新々刀の評価がなされるのは、再び刀の需要が高まりだした江戸時代末、文久年間(1861~1864年)以降である。だからこそ吉宗は、諸国より刀工を召し出し新刀奨励を行ったのである。名物の歴史も参照。

    されども世人專ら古刀を貴ぶの弊ありて。 新製は利刀にても。 好む人少きに至れり。 享保四年万石より上の人々。 領知の内に住ぬる刀工の事を御尋あり。
    (有徳院殿御實紀附録 卷十二)


  • ただしこれらの事とは別に、「山姥切国広」が国広第一の傑作と呼ばれるほどの素晴らしい出来であることは変わりがない。




近年、徳川美術館の学芸員の先生が、ここに書かれている内容とは異なる内容で講演を行なわれていることは承知しています。またそれをもって当サイトの項目名及び記述内容を変更すべきではと忠告される方が複数いるのですが、現時点では変更する予定はありません。以下に理由を述べます。

1.近年提唱された説の一つであり、それが刀剣界から広く支持されている状態であるとは思われない。また本作長義山姥切とする史料が”現時点で”見つからないだけであり、それを否定する史料が見つかったわけではない。

2.現代の特定作品において、写しか否かにより刀剣の扱いをネタにしているようだが、それについては興味がない。むしろ、一作品や一時の感情によって個別刀剣の扱いが左右され、阿るようなことがあってはならない。

なお書くまでもないことですが、『号「山姥切」について』以降に記述している内容が唯一絶対正しいのだ!などというわけではもちろんなく、あくまで(学術的権威でもなんでもない)一個人の現時点における考えにすぎません。当然ですが新たな史料が見つかれば再検討します。しかしそれを伴わない「史料の新解釈」などについては個人的にはあまり興味がありませんし、その種の新説に逐一追随することは他項目同様に行いません。皆さんそれぞれが考えればいいのではないかと思います。

当サイトが検索結果の上位に出現するから…影響が…云々についても正直どうにもできません。諸説があることについて注意を促す意味では、この文章で十分効果があると考えています。また誰でも編集できるWikipediaで存分に自説を主張すればいいでしょうし、それが広く支持されれば自然と検索結果もそのように反映されるのではないでしょうか。逐一確認はしていませんが、恐らく当サイトの記述内容と異なる記述をしている項目も多数あるかと思われます。

例えばWikipediaの「一期一振」項に書かれていた、秀吉が身長に合わせて磨り上げた説がいつのまにか消えています。何を参考にされたのかは不明ですが、当サイトの一期一振項で記述しているものもあくまで一個人の説にすぎませんしかなりの確率で間違っている可能性もあります。さらに最近では、同様にWikipediaで「具体的に刀剣古書籍において、「天下五剣」の名称が用いられた事実はない。徳川吉宗がまとめさせた享保名物帳においても、名物としての記載こそあれ、「天下五剣」の記載はない。~明治以降、自然発生したものと考えられる。」とされていた天下五剣についても、名物帳写本のひとつで「天下出群之名剣五振之内也」などの記述が見つかったことから、既にその記述が消えてしまっています。

結局、現代のある時点で見つかっていないという事だけを根拠に、伝承されていた事実を否定することはとても難しいということです。むしろ確かな根拠となる資料もない段階で「~はこうあるべきだ。Aは間違いだからBに統一すべき」などという考えこそ忌み嫌うべきであって、記述がない、もしくは現時点で見つからない範囲など主観の伴う史料の解釈については、それぞれ異説があって然るべきではないかと思います。


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