大童子

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大童子(おおわっぱ)  

太刀
備前助平作

  • 赤松家の重宝。
  • 赤松家7代当主の赤松義則は、身体が極端に小さかったため、出家後は「赤松三尺入道」と称された。
    嘉吉の乱で将軍義教を暗殺した赤松満祐の父。満祐も三尺入道と呼ばれている。

由来  

  • 当時京都に、市中を馬で乗り回し手当たり次第に人を斬り殺す暴漢がいた。髪を振り乱して童子の格好をしていたため、世人は「大わっぱ」と呼んで恐れた。

    其頃都に不思議の化生のもの出來て、上下の煩是非に及ばず體なり、悉く仔細を尋ぬるに、化生にてはなく人なり、一向に化生の如く馬上にて京中を走り廻り、手に當るものを切廻し、手にたまらねば討べき物なし、髪を長く亂し、大なる兒の様なるものなれば、大わつぱと名付けてをち恐るゝこと限なし、いかにもしてかれを従へたらんは天下の忠義なるべき事と御門よりの宣示なり、然れどもたやすく従へん様なし

  • 赤松義則は単身でそれを探しまわり、御菩薩池(みぞろいけ、深泥池)の辺で行き会い、馬上で斬り合いの上、傷を負いながらも倒した。

    しかるに、三尺入道(赤松義則)是非ともねらひてみんと思召、是も馬に乗り、舎弟をもつれず只一騎こゝかしこをめぐり給ふに、天の御引合せにやあらん、御菩薩池の邊りにて行合ひ給ふ、互に馬上にて渡りあひ、大わつぱを思ひの如く切り落し鎮め給ふ

  • この褒賞として、義則は因幡国智頭(ちず)、但馬国朝来(あさご)、摂津国中島を拝領する。
  • またその時の太刀を「大童子」と名付け赤松家重代とした。

    血流れしに、則御教書戴き給ふにより、彼の御書にも額の血付きたり、今彼家の重寶なり、末代の名誉なり、大童子御退治のうち物、即大わつぱと名付て赤松の重代なり、同桶丸の御太刀と二ツ重代と聞へたり

来歴  

  • 義則の子孫、12代当主赤松義祐にまで伝わる。
  • 播磨置塩城城主であった赤松義祐は、別所重宗(重宗は「三木の干殺し」で自害した別所長治の伯父)に本刀を預けておいたところ、ある時重宗の邸が自火で焼けたときに焼失してしまった。

    然るに先年義祐(12代当主赤松義祐)と範房(13代当主赤松則房)御父子御和睦の調有て、三木より小鹽へ義祐御出の時、三木にて別所彌左衛門重宗に代々の重書を義祐より御預けにて重宗の所に置かれ候なり、然るに重宗の宅不意に自火にて焼け、御重書、同二の御太刀悉く以焼失言語道断の次第にて候由、御家滅亡の瑞相と見えたり


赤松義祐  

  • 赤松義祐は戦国末期の赤松氏当主で、播磨置塩城城主。
  • 赤松晴政の嫡男として生まれ、元服の際には13代将軍義輝から「義」の字の偏諱を請けている。
          【七条】
    赤松円心─┬範資──光則──満弘(範次)─教弘(範久)─元久─政資─義村
         │
         │【春日部】
         ├貞範──頼範─┬満則──貞村──教貞
         │       └持貞──家貞
         │
         │
         ├則祐─┬義則─┬満祐──教康
         │   │   ├義雅──時勝──政則─┯義村─┬晴政─┬義祐──則房──則英
         ├氏範 │   ├則繁         │   │   └則家
         │   │   ├祐尚──則尚     │   └政元─┬正満──正澄
         └氏康 │   └竜門寺直操      │       ├政範──政宗
             │               │       ├政直
             │               │       ├政茂
             │               │       └横山義祐
             │               └村秀──政秀─┬広貞──曽谷祐則
             │                       ├祐高
             │                       └斎村政広
             │
             │【大河内】
             ├満則──満政─┬満直
             │       └教政
             │【有馬】
             └有馬義祐──有馬持家──有馬元家
    
  • 永禄元年(1558年)には浦上政宗などの後見を得て父赤松晴政を追い出し赤松家の当主となるが、晴政は娘婿の赤松政秀を頼って播州龍野城に拠り、義祐に対抗した。
    赤松政秀は、名物斎村貞宗」に名を残す。また政秀の子の斎村政広は「獅子王」を所持していたという。
  • さらに赤松義祐は息子の則房とも折り合いが悪く、一時別所安治の三木城に移動しなければならない程の緊張状態に達したが、程なく則房と和解し置塩城に復帰している。
    • 上記の別所重宗の邸に預けることになったのはこの時のことと思われる。
  • 永禄7年(1564年)には、浦上政宗の長男、浦上清宗と黒田職隆(官兵衛孝高の父)の娘との結婚式を赤松政秀が奇襲し、政宗・清宗親子が討ち取られるという事件も起きている。
  • 永禄8年(1565年)に父晴政が没すると、晴政の意向で宗家と相対していた赤松政秀は対立の理由を失ったため義祐と和解が成立したものの、その後も赤松政秀は勢力を伸張し、永禄10年(1567年)には流浪の身であった足利義昭と接触を図るなどの独自行動を起こしている。
  • 永禄11年(1568年)に信長の協力を得た義昭が15代将軍に就任した際にも、赤松政秀は娘を侍女として仕えさせようとするなど、宗家である赤松義祐を無視する動きが見られた。
  • ここにきて赤松義祐は、遂に御着城主小寺政職に命じて京へと向かう政秀の娘を拉致させ、政秀を「無道の仁」として糾弾し、備前の浦上宗景へと挙兵を促し政秀を挟撃して討ち果たさんとする。
  • しかし政秀が将軍義昭に救援を求めたため、永禄12年(1569年)には池田勝正を大将とする摂津衆に別所安治が加わった軍が播磨の義祐領に侵攻し、さらに浦上家では宇喜多直家の謀反が起きたため、赤松義祐は敵わず置塩城に篭もってしまう。
  • しかし畿内平定を優先させた信長が兵を引いてしまう。義祐が織田家に接近して関係修復を行い、さらに青山・土器山の戦いで黒田職隆・孝高親子に惨敗したこともあり、赤松政秀は龍野城を浦上軍に奪われ幽閉処分を食らい、翌年には暗殺されている。
  • 翌元亀元年(1570年)、赤松義祐は息子則房に家督を移譲し隠居する。隠居から6年後の天正4年(1576年)2月15日に死去。
  • 息子の赤松則房は、のち織田家の中国方面軍を率いることとなった秀吉に臣従する。本能寺の変の後も各地を転戦し、播磨置塩と阿波国住吉にそれぞれ1万石を与えられている。子孫は高野山赤松院の住職や、筑前福岡藩黒田氏の家臣になったという。