備前長船光忠(刀工)

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光忠(みつただ)  

鎌倉時代中期の備前国の刀工

  • 備前国において中世を通じて栄えた備前長船派(おさふねは)の実質的な祖。
  • この光忠から長光の時代に、備前鍛冶は一文字派に代わり長船派が隆盛をみる。

系譜  

  • 光忠は、忠近の子、または弟という。
  • 長船派は子の左近将監長光に引き継がれた。
光忠──長光──景光──兼光──延文兼光──三代兼光──四代兼光──五代兼光
                         (応永年間)(長禄年間)(天文年間)
政光は兼光五男

作風  

  • 古備前派に見られる小沸づいた小乱れの作から、華やかな乱れ刃を焼いた豪壮な作刀まで作行が広い。
  • 古くから"注進物"に選ばれるなど斬れ味優れ、なおかつ華麗な刃取りであるため人気が高い。
  • 織田信長がこの光忠を愛し、生存中に32口を集めたという。
    25口~異説多し。

著名作  

名物  

福島光忠
享保名物。長二尺三寸七分五厘
池田光忠
享保名物。長一尺九寸三分
実休光忠
享保名物。長二尺三寸。織田信長は華やかな光忠の作を特に好み、二十数振りを集めた。中でも三好義賢が戦死時に帯びていた「実休光忠」に執着し大いに愛蔵したと伝わる。
燭台切光忠
信長、秀吉、伊達政宗から水戸家
生駒光忠
金象嵌銘光忠 光徳(花押)生駒讃岐守所持。細川家伝来、御家名物国宝
最上光忠
最上家伝来。重要文化財
高麗鶴光忠
小早川隆景佩用というが、守家の銘を消したものともいう。
常縁光忠(じょうえんみつただ)
東常縁所持の長船光忠の太刀
秀吉の常差し
 
小西行長佩用
最期まで差したという

御物  

太刀
銘「備前国長船光忠」磨上で、茎尻に銘が残る。直刃小丁子乱れで、地鉄よく詰む。三の丸尚蔵館蔵、旧御物

国宝  

太刀
銘「光忠」長72.4cm、反り2.3cm。元禄十一年(一六九八)、五代将軍綱吉の尾張家江戸麹町屋敷御成の折に、尾張家三代徳川綱誠が拝領したもの。昭和28年11月14日重要文化財指定、昭和29年3月20日国宝指定。愛知徳川美術館所蔵
金象嵌銘「光忠 光徳(花押) 生駒讃岐守所持」号 生駒光忠。長68.4cm、反り2cm。光忠の作刀中、最も華やかな作として知られる。永青文庫所蔵
金象嵌銘光忠 光徳(花押)。個人蔵
太刀
金象嵌銘「光忠 光徳花押」。長二尺三寸九分二厘(72.5cm)、反り七分九厘(2.4cm)。鎬造り、庵棟、切先猪首。鋩子乱れ込み浅く返る。表裏に棒樋を掻き通し、なかご大磨上。信長の愛刀。信長から家康に贈り、水戸徳川頼房に与えた。松平頼雄が常陸宍戸藩を立藩した際に贈られる。明治まで同家に伝わる。昭和15年5月3日旧国宝指定、昭和26年6月9日国宝指定。個人蔵

重要文化財  

太刀
銘「光忠」長68.7cm、反り2.7cm。昭和6年12月14日旧国宝指定。林原美術館所蔵
太刀
金象嵌銘光忠 本阿(花押)。長69.4cm、反り2.1cm。本阿弥13代の本阿弥光忠の極め。目釘孔2個の間に本阿(花押)。磨上。徳川将軍家伝来。昭和24年2月18日重要文化財指定。東京国立博物館所蔵
太刀
無銘伝光忠(個人蔵)1952年指定、(号 最上光忠)最上家伝来で、生ぶ茎(うぶなかご)無銘の太刀である。
金象嵌銘高麗鶴 伝光忠(個人蔵)1941年指定 小早川隆景が朝鮮出兵の折、佩用。
太刀
銘「光忠」東京国立博物館所蔵
太刀
銘「光忠」愛知・徳川美術館所蔵
太刀
銘「光忠」紀州東照宮所蔵
太刀
銘「光忠」出雲大社所蔵 ※恐らく下記と同物
太刀
銘「光忠」出雲大社所蔵。慶長14年(1609年)の遷宮の際に、秀吉の佩刀を淀君及び秀頼が寄進したもの。

豊臣秀吉佩刀 壹口
銘光忠長二尺三寸慶長十四年三月出雲大神造營遷宮の際淀君秀頼より寄附せられ雨森出雲守をして供奉せしもの

太刀
銘「光忠」厳島神社所蔵
太刀
銘「光忠」1935年重要文化財指定。個人蔵
太刀
銘「光忠」1936年重要文化財指定。個人蔵
太刀
銘「光忠」1958年重要文化財指定。個人蔵 ※『国宝重要文化財大全』に写真なし。
無銘伝光忠。旧御物東京国立博物館所蔵
無銘伝光忠。1952年重要文化財指定。個人蔵
銘「光忠」個人蔵

その他  

太刀
金象嵌銘光忠 本阿(花押)長二尺三寸九分二厘(大磨上)、反り七分九厘。織田信長から徳川将軍家、水戸頼房と伝来。清田政人氏所持。目釘孔2個の下に光忠、本阿(花押)。
太刀
信長所蔵の光忠のうち、一口を近衛前久(龍山)が譲り受けている。信長の死後、秀吉はこれを譲るように迫っているが、前久は「懇恩フカキ信長公ノ御形見タレハ無左右彼手被相渡事御迷惑」と断る。しかし天正13年(1585年)、秀吉は関白相論に絡んでこの光忠を譲り受けてしまう。このことは、前久の子の近衛信尹が記した「三藐院記」に記されている。

関連項目