余野山

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余野山(よのやま)  

太刀
相州廣次作
銀象嵌銘 よノ山乃 山内對馬守
長一尺九寸
山内神社所蔵(御神体)

  • 「よの山の太刀
  • 土佐藩主となった山内家代々の宝刀。
  • 作者の相州廣次は相州鍛冶広光の系統で、同名数代あり。
  • 中心に「よノ山乃 山内對馬守」と所持銘が入る。山内家史料などでは金象嵌となっているが、銀象嵌とされる。

由来  

  • 山内家史料では、次の歌が添えられているが、この歌に読まれている「よの山」がどこを指すのかは不明。

    よの山の高根/\をつたひ来て 富士の裾野にかゝるしら雲

来歴  

山内盛豊  

  • 山内一豊の父、山内盛豊は岩倉織田氏の家老で、尾張黒田城代を務めた。
    尾張守護代織田家
    尾張守護代の織田家は、岩倉城を本拠地として尾張上4郡を治める岩倉織田家(伊勢守家)と、清洲城を本拠として尾張下4郡を治める清洲織田家(大和守家)に分かれていた。山内盛豊はこのうち岩倉織田家の家老を務めたという。
    ちなみに信長の家系は、清洲織田家に仕えた清洲三奉行のうち、弾正忠家と呼ばれた家系。
  • 盛豊は、弘治3年(1557年)あるいは永禄2年(1559年)に戦死あるいは自害したという。

山内一豊  

  • 本刀は子の山内一豊に伝わる。
  • 一豊が牧村政倫に仕えていた頃、家臣の萩原市助が牧村の命に背いたために斬られることになった。使者二名が恐れて近づけない所、一豊がこの「よの山」にて見事斬殺したという逸話が残る。これは永禄3年(1560年)夏のことであったという。

        覺
    一、よの山 廣次御刀
    右者盛豊様より御重代之由、一豊様御幼年より御所持被遊候由、申傳候

    永禄三庚申年、牧村政倫家士有背命者使兩使撃之儀餘恐怖伐逮遲怠牧村、一豊公をして令往見之被家屋自裏入、兩使犀撓移時、斯に一豊公、後斬其後是山内重代よの山刀、銘相州廣次、長一尺九寸三分、忠裏にヨノ山、山内對馬守と金の象嵌

    牧村政倫(まきむら まさとも)
    牧村政倫は美濃牧村城主。山内一豊は一時期この牧村政倫に仕えていたという。外孫で養嗣子となって牧村家を継いだ利貞(実は稲葉重通の子)は、茶人大名で利休七哲の一人でもある。従五位下・兵部大輔であったことから、「牧村兵部」として茶会に登場する。
    牧村利貞の娘に祖心尼がいる。

  • 山内一豊は諸将を転々としたのち永禄11年(1568年)ごろには信長に仕え、木下藤吉郎(後の秀吉)配下となった。
  • なお「一豊公記」によれば、山内一豊が正五位下・対馬守に叙任されたのは天正13年(1585年)9月~翌天正14年(1586年)4月までの間とされる。
  • 金象嵌を入れたのはこれ以後ということになる。
  • 山内家史料

    一、明神様(一豊)の御差料なりしよの山の御太刀は長サ一尺九寸、作は相州の廣次、〈棒鞘ニ入〉見事なるもの也、中心によのやま山内對馬守と金の象嵌にて有之

  • 文化3年(1806年)、土佐藩10代藩主豊策により造営された藤並明神(現、山内神社)には、御神体として、この余野山の太刀を祀っていたという。

    一、藤並明神御神體
    一豊公 余野山御太刀 相州廣次、長一尺九寸三分、忠裏に、ヨノ山山内對馬一■

    藤並明神
    藤並明神は、初代藩主の一豊とその夫人の見性院千代、及び2代藩主忠義を祀るために高知城内に造営された神社。幕末には御旅所の地に山内神社が創建され、さらに明治維新後に15代山内容堂と16代豊範を顕彰する別格官幣社山内神社が創建されたが、昭和20年(1945年)に両神社は焼失し、藤並神社を合祀した上で土佐藩歴代のすべての藩主を祀る神社となった。

  • 現存。
    • 2017年7月、「よの山の太刀」は11年ぶりに公開された。