三矢宮松

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三矢宮松(みつや みやまつ)  

日本の内務官僚、宮内官僚
愛刀家

概要  

  • 明治13年(1880年)、山形県西田川郡鶴岡町(現在の鶴岡市)に三矢維顕の三男として生まれた。
    三矢家は庄内藩の士族で、祖父が藩校の典学を勤めた家系である。
    また宮松の実兄三矢重松は、国語学者・国文学者で文学博士。國學院大學教授であり、折口信夫の師となった人物。いわゆる「三矢文法」を完成させ、「最後の国学者」と呼ばれる壮烈な学風で知られた。
  • 宮松は、東京府立第四中学校、第一高等学校を卒業し、東京帝国大学法科大学独法科に入学。明治40年(1907年)7月に同大を卒業、同年11月に高等文官試験に合格し、文部属を経て内務省に入省する。
  • 各県警察部長、内務部長を歴任し、1918年(大正7年)に休職となった。1920年(大正9年)警察講習所教授に任じられ、内務書記官、内務参事官、内務監察官を務めた。
  • 大正13年(1924年)9月、朝鮮総督府警務局長、大正15年(1926年)帝室林野局長官。昭和15年(1940年)に退官。
  • 以後、横浜正金銀行監査役、根津美術館館長、帝国ホテル監査役などを務めた。
  • 戦後に文化財保護委員会専門審議会委員。
  • 昭和34年(1959年)1月10日死去。享年79。

愛刀家  

  • 大学時代からの愛刀家でもあり、「太閤御物刀絵図」中村本を所蔵していたことがある。
  • また国会図書館所蔵の「観智院本銘尽」に三矢宮松が解説を付けたものが便利堂から出版されている。
  • 若い官吏時代から蒐集癖があった。月賦・年賦で相当数の名刀を入手しては夫人に小言を言われていたが、夫人から咎められても三矢は「刀を買ってわるければ女を買う」と度々恐喝した。
  • しかしある時、9人家族のうち7人が赤痢で入院する騒ぎが起きるが、このときの入院費用が刀の処分で簡単に片付いてしまったためにそれからは刀を買っても夫人に叱られなくなったという。

本間順治との関係  

┬本間光美──源吉光輝─┬光弥──光正
└本間光訓─┬光勇   │
      └光三   └妹
             ├──┬本間祐介
       服部弥惣──敬治 └本間順治
                  │
             ┬○───夫人
             └夫人
               │
  三矢静──三矢維顕──┬三矢宮松
             └三矢重松

三矢先生は、私や寒山と同郷の大先輩であり、私とは元来遠縁であり、夫人は家内の叔母である。

私は上京して、國學院大學で国文学と日本美術史を学ぶかたわら刀剣の鑑識を本格的におさめたく、まず先生にご相談をしたのであったが、先生は棋界の大先達であり、宮内大臣であった一木喜徳郎男爵とご相談の上で、神津伯先生に師事するようにとすすめられ、ご紹介下さったのである。
この頃一木男爵は中央刀剣会の名誉会頭でもあり、三矢先生も役員であったとおもう。

先生のお宅は目白にあり、私の宅は下落合にあって、この間歩行十分位の距離であったので、いつも参上しては夜おそく帰るので三矢家での私のニックネームは”十二時半”(順治さんをもじる)であった。

関連項目