三好宗三


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三好政長(みよしまさなが)  

戦国時代の武将
勝時流三好氏第2代当主
越後守
半隠軒宗三

Table of Contents

概要  

  • 永正5年(1508年)生れ。
  • 三好勝時、あるいは持勝入道宗安の子という。
  • 幼名新五郎。神五郎。

生涯  

  • 三好政長の長兄新五郎は、叔父で本家当主であった三好之長に従い等持院の戦いで細川高国(細川京兆家15代)に敗れ、之長と共に処刑されている。

堺政権での台頭  

  • 政長は、分家出身ながら細川晴元(京兆家14代澄元の子で、細川京兆家17代)の側近として台頭する。
  • 大永6年(1526年)高国が自ら招いた内紛で苦境に立たされている際に、政長は父や次兄勝長と共に阿波勢の先鋒として堺に上陸、摂津堀城を占拠する。翌大永7年(1527年)にも堺へ上陸し、桂川原の戦いで高国に勝利して近江へ追い落とし、上洛を果たす。
  • 従甥にあたる本家当主三好元長(之長の孫)が、足利義維と細川晴元を擁立して堺に幕府と酷似した堺公方府を誕生させると、その中枢に入り権勢を振るった。

三好本家との対立  

  • 元々折り合いの悪かった三好氏本家の三好元長が台頭するとこれと対立し、享禄5年(1532年)には細川晴元、木沢長政らと組んで一向一揆(本願寺)を策動し、堺の顕本寺に元長を囲い自害に追い込んだ。この時政長は、三好元長が任命されていた河内十七箇所の代官職に任命されている。
    享禄5年(1532年)1月に入道し宗三を号す。河内十七箇所とは、現在の淀川左岸に広がる大阪府寝屋川市、守口市、門真市にまたがる地域のことを指す。
  • 元長の遺児三好長慶は、阿波で勢力を回復すると天文2年(1533年)には一向一揆と晴元との和睦を周旋、さらに暴徒化した一揆衆と戦いこれを蹴散らしている。さらに天文8年(1539年)石山本願寺法主・証如の後ろ盾も得た長慶は入京する。長慶の勢力が膨らむに連れ、元長の遺領であった河内十七箇所を巡って政長と長慶の対立は激しくなる。
  • 天文10年(1541年)から天文16年(1547年)頃までは、細川晴元の配下として長慶と共に行動することが多かったが、天文13年(1544年)に晴元の勧めもあり家督を嫡男政勝に譲って隠居した後も晴元腹心の地位を保持し続けたため、長慶ら周囲の反発を招いてしまう。
  • さらに天文17年(1548年)5月には摂津国人・池田信正を切腹させたことにより政長の外孫である池田長正が継ぐこととなったこともこれに拍車をかけてしまう。長慶は細川晴元に政長追討を願い出るが受け入れられず、8月、細川氏綱・遊佐長教と結んで晴元に反旗を翻し、河内十七箇所へ兵を差し向け三好政勝(為三入道)が籠城する榎並城を包囲する。
    三好政長の娘が、摂津の国人池田信正に嫁いで産んだのが池田長正である。なおこの池田氏は摂津池田氏と呼ばれ、近世大名となった美濃池田氏とは別系統。長正の子の池田知正の代に荒木村重により下克上がなされ、勢力を失った。

    此城は元来も宗三が館なれば、究竟(きゅうきょう)の要害を(こさ)へ、日来は子息衛門大夫政勝を籠置たり
    (万松院殿穴太記)

最期  

  • 天文18年(1549年)にそれまで囲んでいた政勝(為三入道)が篭もる榎並城に2月長慶の本隊が出陣すると政長もこれに接近するが、3月1日逆に柴島城を落とされてしまう。単独で戦えないと見た細川晴元は六角定頼・義賢父子の援軍を待つ方針であったが、政長は榎並城の状況を救うため、6月頃前線である江口城へ入城する。
  • これを好機と見た長慶により江口城を囲まれ、六角軍が到着する前に攻め込まれると(江口の戦い)政長は敗死した。享年42
    榎並城があったのは現在の大阪市城東区野江の野江水神社付近とされる。江口城は淀川右岸である大阪市東淀川区の旧江口村付近とされる。
  • 嫡子の政勝と細川晴元は榎並城から脱出するが、長慶は細川高国の遺児氏綱を擁立して晴元に家督を譲らせ、さらに14代将軍義輝から御供衆の格式を与えられたことで細川家家臣から将軍家直臣へとなり実権を握ることとなる。これによって長年に亘って幕政を担ってきた細川政権は一挙に崩壊し、消滅することになった。

逸話  

  • 入道し半隠軒宗三(そうざ、そうさん)を名乗った。

    天文十一年四月 丹波宇津城。波多野。三好甚五郎(入道半隱齋宗三)雖責寄之。一向不成候。今日開陣云々。
    (蜷川親俊日記)

    「宗三」の読みは諸説ある。三好政長が建立した菩提寺、堺の善長寺には堺市が建てた銘板がある。そこでは「しゅうぞう(Shuzo)」とする。

  • 名将の呼び声高かったという。

    三好宗三ノ知謀ハ、隠モナカリケレト書タリ。雙六ノ賽ノ一ノ裏ニ六ヲ見ル如ク。子息右衛門大輔武勇少ヲトリテヤ有ケン。齢重テ後落髪シテ、為三ト改名シラレケレバ、如何ナル軽口者カシタリケン、戯テ一首ノ哥ニ、宗三ノ三ノ字迄ハヨケレ共為三ノ三ハサンザンの三、トゾ書タリケル。誠ニ人ノ口程恐キハナキトゾ。

名物  

  • 武野紹鴎に茶を学び、よくした。
  • 刀剣・茶器の名物を蒐集したことで知られ、「宗三左文字義元左文字)」、「九十九髪茄子(作物茄子)」などがその後天下取りのもとを渡って行くことになる。
  • ほかに「松島の茶壷」(東山御物)、天下三肩衝の1つ「新田肩衝」、曜変天目、「伊勢天目」、「青磁竹の子茶入」なども所持していた。

    〔宗三〕三好越前守政長、四國細川氏ノ臣、紹鴎門人ニシテ有名ナル付藻茄子、天下一青磁、蕪なし花生等ヲ所持ス、此年6月従兄三好長慶ト江口ニ戦ヒテ河内ニ敗死ス時ニ年四十二

  • 天文18年(1549年)に三好宗家の長慶との戦いが激化した時期には、天王寺屋会記にも茶会の記載がなくなっている。

    五月七八月中ニ茶會ナキハ三好長慶細川晴元三好宗三トノ合戦アリ、宗三敗死シ斬ラレタル首千三百八十餘級、晴元亦大敗シ、将軍義輝ヲ奉ジテ近江ニ奔レルガ如キ騒動アリシガ爲ナリ、此間ニ於テタトヘ一回タリトモ宗理ノ會アリシガ如キハ頗ル珍トスベシ

  • 宗三および子である三好政勝は、刀剣書「永禄銘尽」を所蔵したとされる。

家系  

  • 父三好勝時は三好長之の子。
  • 子に数寄者・刀剣鑑定で高名な三好政康(下野守、釣竿斎入道)、および三好正勝(一任斎、為三入道)がいる。
    【三好家系図】
    源義光………小笠原貞宗─小笠原政長─小笠原長興─三好義長─┐
                                 │
    ┌────────────────────────────┘
    │
    └長之─┬之長─┬長秀─┬元長───────┬三好長慶─┰三好義興 ┌義兼
        │   │   │         │     ┗三好義継─┼義茂
        │   │   └康長─康俊─俊長 │           └長元
        │   │  (笑岩入道)     │【阿波三好家】
        │   │             ├三好義賢─┬三好長治
        │   │             │(実休) └三好正安(一存養子 存保)
        │   ├頼澄──政成       │
        │   ├芥川長光──孫十郎    │【安宅】
        │   │             ├安宅冬康─┬安宅信康
        │   └長則──長逸─┬長将   │     └安宅清康(河内守)
        │           └長勝   │
        │                 │【十河】
        │                 └十河一存┬┰十河重存(長慶養子 義続)
        │                      │┗十河存保
        │【勝時流】                 └─十河存之(存保家老)
        ├越後守長尚─┬新五郎
        │      ├勝長
        │      └政長─┬政康(下野守、釣竿斎)
        │      (宗三)└政勝(一任斎、為三入道)
        │
        └遠江守勝宗(一秀)
    


関連項目