備前長船兼光(刀工)


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 備前長船兼光(びぜんおさふねかねみつ)

備前の刀工
備前長船兼光。長船派
長船景光の子、通称「孫左衛門」。
殊に延文年紀銘の兼光が「最上大業物」として珍重され、俗に「延文兼光」と呼ばれる。

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 概要

  • 通常、兼光という場合、初代と二代、特に最上大業物14工の二代目「延文兼光」を指すことが多い。
光忠──長光──景光──兼光──延文兼光──三代兼光──四代兼光──五代兼光
                         (応永年間)(長禄年間)(天文年間)
政光は兼光五男

 足利尊氏の番鍛冶

  • 兼光は室町幕府を開いた尊氏に召しだされ太刀を鍛えたという。その褒美として城の内築地(伝兼光屋敷跡)を賜った。一丁四方の広さに濠をめぐらし、四方に櫓を立てた城に代々この地の鍛冶が住したという。

 初代:孫左衛門

  • 備前長船住兼光
  • 文永年間(1264年-1275年)頃の人。岡崎五郎入道正宗正宗十哲とされる。
  • 大業物21工の一。鉄砲切り、石切り、甲割り等の名作が多く、重要文化財指定の作刀がある。
  • 通称「孫左衛門」、「大兼光」とも
  • 正宗の門人とする点については、年代的にみて疑問視する説もある。

 二代:延文兼光

  • 備前国長船兼光 嘉暦~延文年間(1356年-1361年)頃南北朝時代の人。
  • 長船景光の子。左衛門尉。
  • 「延文兼光」と称される。
  • 古刀最上作。最上大業物14工の一。重要文化財の作刀がある。
  • 身幅が広く、相州伝を加味していることから相伝備前と呼び、正宗の弟子(正宗十哲)とする。
  • 作風に幅があることから、この兼光には初代・二代があるとする説が古来唱えられていたが、現在では、同一刀工の作風の変化であって、一代限りとする説が有力とされる。

 活動年代

  • 元亨から応安にかけての年紀作があり、時代柄大太刀や寸延短刀など豪壮な作例が多く、初期には景光の作風に近く直刃や片落ち互の目など地味なものが多いが、次第にのたれに互の目がまじった華やかな刃文を焼くようになる。また、地鉄に「牡丹映り」と呼ばれる独特の映りが現れるものが多い。刀身に彫刻を施したものも多く見られる。

 上杉家

  • 上杉家には戦前まで3振りの生ぶ茎(うぶなかご)で延文年間の大太刀が伝わっていたが、うち1振り(延文2年8月、重要美術品)は戦後アメリカ軍に接収されたまま行方不明で、現在確認できるものは2振り(いずれも重要文化財)となっている。斬れ味に優れており「波泳ぎ兼光(波遊ぎ兼光)」や「鉋切り兼光」等の異名を持つ作刀も多い。
  • 正平5年(1350年)11月、長船近くの福岡に足利尊氏が二ヶ月ほど滞陣しており、このとき兼光に鍛刀させ兜を試させると見事断ち割ったため「兜割り」と名づけたという。この時長船城と一町四方の屋敷を拝領したという。

 著名作

福島兼光
重要文化財、銘「備州長船住兼光」、享保名物。福島正則所持、前田家伝来
京極家伝来兼光
京極高和所持 本阿弥光温折紙
大兼光
享保名物大兼光」。重要文化財、佐野美術館所蔵
大兼光
山内家所蔵「大兼光」。今村長賀旧蔵、山内家献上。重要文化財、高知県所蔵
相馬兼光
享保名物「大相馬兼光」大久保氏家臣・相馬長四郎所持
波泳ぎ兼光
上杉から小早川秀秋「波遊ぎ末代剣」のち立花家。
竹俣兼光
竹股。鉄砲の筒を切り落としたという。上杉景勝から秀吉に献上。
城井兼光
黒田家伝来、城井氏討滅時使用。
吉田兼光
毛利輝元より鳥取藩池田忠雄
太郎坊兼光
明智光秀が愛宕神社に奉納。
水神切兼光
上杉家御手選三十五腰で、直江兼続の愛刀。
四海波兼光
謡曲「高砂」にちなんだ号。
一国兼光
土佐山内家
太閤兼光
小田原征伐の際、駆けつけた出羽角館城主戸沢盛安に与えた兼光
明智兼光
明智光秀から家康、小牧・長久手の戦い後に成瀬隼人正正成に与えられ、同家に伝来。犬山城白帝文庫所蔵
「鉄砲切り」
秀包所持、向井将監象眼銘。松浦鎮信家伝。
鉄砲兼光
山崎閑斎所持。 ※初代?
「兜割り」
足利尊氏。多々羅の浜で敵の兜を切り割ったという。 ※初代?
「藤丸」
足利義昭の差料。刃長九寸三分五厘。「備州長船兼光 延文二年七月日」。幕末には大坂の商家岡野家の所蔵。同家の由緒書きによれば藤鞘巻・九条兼光ともいい、南北朝の頃の九条経教の蔵刀を足利義満が今川了俊に命じて模造させたもの。経教は「藤丸のさやかにうつる小刀の やきはに波の立つかとぞ見る」と歌を贈った。岡野家先祖の判官満則が明徳2年12月に内野での功を賞して拝領という。
甲割り
「兜割り」小笠原長時所持。
「石破り兼光」
浅井長政が婚姻の際に信長に贈った。「石割」「石割兼光」

翌日長政は家重代の備前兼光の太刀、名を石割といふ太刀一腰、近江綿二百把、同じく國の名物布百疋、月毛の馬一疋、定家卿の藤川にて被遊し近江名所つくしの歌書二冊進上して御禮申上る、又信長の供の者共に不殘あらみの太刀脇差をひかれける。

今度信長卿へ進上せらるゝ備前の兼光の太刀は、亮政秘藏せし打物なり、備前守より備前兼光を信長に送られしは、備前守信長のために滅亡せられし前表なりとは後にぞ思ひ知られたる。

「砥石切り」
「石切り」戸次統直
「鉋切り兼光」
 
念仏刀
百々内蔵助。袈裟斬りにしたところ、念仏を唱えながら一歩進んでから倒れた。「唱え念仏」
後家兼光
直江兼次
曲淵兼光
曲淵庄左衛門所持。長久手の戦いの折に家康より拝領
紅葉狩兼光」
加藤清正所用、死後に秀忠に献上。
降伏兼光
東常縁家重代。銘「備州長船兼光」、裏「延文三年三月日」。
「センス丸」
「センズ丸」竹腰山城守
武田信虎所持
二尺九寸三分、磨上られ二尺六寸三分になっていたもとのが明治まで残り高瀬羽皐が所持したという。
大太刀
重要文化財、銘「備前国長船兼光」
「朝鮮兼光」
慶長の役、泗川の戦いにおいて、島津義弘佩用と伝わる。加治木島津家伝来。昭和41年(1966年)3月25日姶良市指定文化財。個人蔵、鹿児島県歴史・美術センター黎明館寄託。
刀 備前兼光(朝鮮兼光) | 姶良市デジタルミュージアム
琉球兼光
島津家伝来。無銘。
乃木大将自害
大正元年9月13日に割腹自殺した際の軍刀は、無銘ながら長船兼光の鑑定。刃長二尺二寸九分。
太刀
銘「備州長船兼光」長さ70cm、反り1.5cm、元幅2.7cm。鎬造、庵棟。磨上げのため反りは浅い。佩表茎先に長銘が残り、表裏には「天明五年巳七月奉納」、「本三州之士尾州矢田作十郎助吉帯之」と奉納朱銘がある。目釘穴4個。初代兼光。
太刀
銘「備前国長船兼光/延文元年十二月日」昭和10年8月3日重要美術品指定中島喜与一氏所持(兵庫県河瀬虎三郎旧蔵)
太刀
銘「備州長船住兼光/暦応四年十一月日」昭和16年9月24日重要美術品指定、尾張黎明会所蔵。
太刀
銘「備州長船住兼光/建武二年六月日」昭和10年5月10日重要美術品指定、木村貞造氏所持(赤星鉄馬氏旧蔵)
太刀
銘「備前国長船兼光/康永三年六月日」昭和16年9月24日重要美術品指定、木村定造氏所持、伊藤昌二氏旧蔵。刃長二尺五寸四分強、反り一寸。表裏に丸留の棒樋。目釘孔3個。
脇差
銘「備前国長船兼光/貞和三年十二月日」長1尺7寸5分。刀剣博物館所蔵
太刀
銘「備前国長船住兼光/建武二年七月日」昭和10年8月3日重要美術品指定、平塚甚右衛門所持。
短刀
銘「備州住長船兼光/延文□年十一月日」刃長九寸三分八厘、反り五厘。目釘孔3個。昭和16年4月9日重要美術品指定、木村巳之吉所持。小窪健一氏旧蔵。
蜻蜒(とんぼ)太刀
銘「建武五戊寅八月/備前國長船兼光」刃長二尺四寸五分。肥後菊池武光の所持。
湯川彦右衛門が禁中より拝領したものにもこの「蜻蜒の太刀」が見えるが動物かどうかはわからない。
無銘(傳兼光) 本多忠爲ノ所持銘アリ。昭和15年(1940年)9月27日重要美術品認定。子爵本多忠昭蔵。
  • ほかには大岡越前守所持など。

 三代

  • 備州長船兼光。
  • 応永年間(1394年-1428年)頃の人。三代兼光。重要美術刀の作刀がある。

 四代

  • 備前長船兼光
  • 長禄年間(1457年-1461年)頃の人。重要刀の作刀がある。

 五代

  • 備前長船兼光
  • 天文年間(1532年-1555年)頃の人。重要刀の作刀がある。

 関連項目


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