享保名物帳


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 享保名物帳(きょうほうめいぶつちょう)

享保名物牒、享保名物、刀剣名物帳、享保名物蝶

  • なお「享保名物帳」の名は近代に入ってからのものであり、当時は「名物鑑」「古刀名物帳」などと呼ばれていた。
  • この項では享保名物帳自体について記す。具体的な所載刀については「名物」の項を参照。
Table of Contents


 概要

  • 上巻:名物三作 即ち吉光(16口)、正宗(41口)、郷義弘(11口)
  • 中巻:名物集 平安時代から南北朝までの諸国刀工100口
  • 下巻:名物焼失(大坂の役、または明暦火災)80口
  • 名物追記:いつごろ追記されたのか不明。25口。
  • 昔之名剣御所之剣
    焼失品は、本能寺の変(焼身二振)、大坂夏の陣(焼失したもの九振)、明暦の大火(六十九振)などによるもの。

 記載されない名物

  • 享保名物帳は、8代将軍吉宗の命により集められたものであり、言い換えれば本阿弥家で鑑定の上、押形を取っていた名物刀剣台帳である。
  • また徳川将軍家においても大名家で所蔵する名物刀剣を召し上げることが行われていた。召し上げを恐れる大名家では、本阿弥はもちろん町研ぎにさえ出さないなど秘匿する家もあった。
    事実、御三家の尾張徳川家ですら「後藤藤四郎」の召し上げを打診された逸話が残る。






 原本:本阿弥光忠

 「享保書上げ」

  • 元々は、八代将軍吉宗の命により享保4年(1719年)11月に、本阿弥家十三代当主の光忠が全国に散在する名物といわれる刀剣を作成して献上した本。
    • 健全な名物157振り、消失の名物78振り、計235振り。
  • 諸大名家に散在していた名刀や焼失品80口を問い合わせを行って調査し、寸尺や由緒を記してある。

    享保四年己亥十一月三日
    将軍吉宗公命有久世大和守於宅諸家へ被仰書付
              覚
    一、領分之内に居候打物仕候鍛冶何人ほと有之候哉人別に名書付可被差出候内誰々は別て打物仕候と有之儀附札に成共可被書付事
    一、右鍛冶共の内当時打物細工ははやり用不申候得共此内誰々者家筋にて古来より作之筋目にて今以打物仕家業致相続有之候と申儀是又附札成共書付可被差出事 以上
     享保亥年三月廿五日於同人宅被仰渡御書付
              覚
    一、領内有之鍛冶の儀被相達候に付書付被差出候右書付の内にて鍛冶打候刀脇差の内一腰可被差出候
    一、右書付の内難差出仕鍛冶両人有之候は一腰、両腰可被差出候同じ一人一作一腰差出候様に可被心得候
    一、右者当時打物仕居申候鍛冶打置候道具の事に候鍛冶の手前に不合候は打置候を才覚可差出候新規打立候には不及候 以上

  • 光忠は、収集した情報を記録し「享保書上げ」という刀工調書にまとめた後、さらにそれを整備したものを献上している。前者を副本と呼び、後者(献上分)は正本と呼ばれている。

 本阿弥家「留帳」

  • これとは別に本阿弥家には「留帳」という折紙発行の記録台帳があり、その他にも「本阿弥空中斎秘伝書」、「本阿弥光心押形」、「光徳刀絵図」など、先祖の残した押形本など多数の資料が残されていた。
  • それらや、「名物扣」の中から、健全なもの百六十八振り、消失したもの八十振り、合計二百四十八振りを選出し、各作品に由来等を書き添えて同年十一月に幕府に提出したと見られる。
  • なお提出は本阿弥三郎兵衛光忠であるが、清書したのは分家の本阿弥市郎兵衛だったようである。

 控え「銘刀伝家日記」

右者上奉始、諸家の銘刀取調被仰付、奉晨刻家之記より相撰奉書上控 享保四己亥十一月 本阿弥三郎兵衛

  • 写し
名物
享保8年本
「天下雄剣録」
「刀剣雑記 全」所収。宝暦7年本、148口掲載。銘有無、寸尺、代付、所蔵者のみを記す。「愛染国俊」、「へし切長谷部」、「秋田了戒」、「鶴丸国永」、「上部当麻」、「上部当麻」、「村雲当麻」、「鉈切当麻」、「大坂当麻」、「児手柏包永」の10口が抜けている。
「銘物帳」
安永2年本
名物帖」
安永8年本
名物刀剣記」
寛政5年本

 名物扣(めいぶつひかえ)「家之記」

  • 「留帳」の中から、名物および名刀を抜粋したもの。
  • 吉宗が享保初めに”初風”と命名した国正も載っているため、「名物帳」作成の頃に資料として作成されたものとみられる。
  • 吉光正宗郷義弘の三作についても、少し相違するだけである。
  • 三作以外の配列は整頓もされる覚書の儘となっている。






 名物帳の変遷

 長根による追記

  • 欠けていた名物29口を追記し、さらに「昔之名剣御所之剣」を追加したのは、本阿弥長根による写本「刀剣名物帳」からという。
  • それによると、まず本阿弥家に残っていた「名物扣(家之記)」を参照し、29口の名物を追加。→「名物追記」
  • さらに祖父光賀が寛延元年(1748年)に京都御所の剣を研いだ時の記録を取ったものを付録として添えた。→「昔之名剣御所之剣
  • この「刀剣名物帳」(芍薬亭本)は現在は国立国会図書館所蔵。

 上中下巻の分類と「名物三作」の独立

  • 名物三作が独立した経緯については諸説がある。
  • 慶長~江戸初期の刀剣押形などでは、その並びからは名物三作が特別扱いされていない。
  • また享保四年の幕府提出本には上中下巻の区別がなく、本阿弥長根がそれを上中下巻に分けたとされる。※佐野美術館「名物刀剣」
  • それによると、本阿弥家に残っていた光悦による「本阿弥光悦名物帖」と幕府に提出した写し「本阿弥家伝名物惵」では、「貞宗」が三作と同様に特別に扱われているが(名工四工)、その後長根の弟子である菅原質直による「刀剣名物帳」ではいわゆる三作だけが独立して扱われ、貞宗は他の刀工と同じく五畿七道の分類に入ってしまっている。
  • このことから、貞宗を含んだ名工四工から三作へと絞り込んだのは本阿弥長根であるとしている。
  • その後、本阿弥長根による芍薬亭本を底本とした星野求与本が出され、さらにそれを宮内庁御刀剣係となった今村長賀による写本を底本として「詳註刀剣名物帳」(大正2年 羽皐隠史)、求与本を底本とした「刀剣名物帳全」(中央刀剣会 大正15年)がそれぞれ発刊された。この頃には「享保名物帳」は上中下の三巻構成とし、上巻に三作を掲載することが定番になった。
  • この後、昭和45年に雄山閣が辻本直男氏補注により発行した「図説刀剣名物帳」、福永酔剣氏による「日本刀大百科事典」などではこの説を踏襲する形となっている。
    このうち「詳註刀剣名物帳」(大正8年の増補版)が国立国会図書館デジタルコレクションで電子化され公開されており、容易に参照できる。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/951684 




 派生書籍

  • 「享保名物帳」は原本が現存しておらず、写本または転写本のみが現存する。
  • これらは大きく2つに分類できる。
    • 1.徳川将軍家献上本の写し
      • 書き出しが「御物厚藤四郎」(現在国宝)で始まる。なおここでいう御物とは徳川将軍家を表す。本阿弥光忠が、献上するために将軍家所蔵刀剣から順に並べ直したもの。
  • 2.本阿弥家に残った調査記録を写したもの

 献上本の写し

 名物鑑」

徳川美術館所蔵

  • 右明治三年(1870年)夏於西京本阿弥百次郎以秘書竹屋九右衛門校合追加写之則以蔵書本増補之 同季秋葉月

 古刀名物帳」(写本)

国立国会図書館所蔵

  • 前書

    名物帳の書は本阿弥の家に有書也。享保の頃、台命によりて本阿弥一郎兵衛自毫に書記して、公に捧る書也。物の卷にしるせしハ、今世に散在する古への名物太刀刀の異名寸尺伝記持来を述也。公にあるは御物としるし、外ハ今時持りし名を記す。後の卷ハ古より唱へし名物の剣の兵火又ハ水火の災にかゝりて今ハ失たる由来を書集し書也。高田英通故有て伝秘し置し書を求書し、解しかたく疑しきと思識もあらためす、本のまゝま写しとめぬ。
     安永八年(1779年)己亥歳八月  源長俊

    • 源長俊は、榊原香山のこと。「本邦刀剣考」などを著した人物。

 古刀名物帳」(写本)

日本美術刀剣保存協会所蔵(犬養毅旧蔵)

  • 奥書 享保四己亥年霜月如此認上

 本阿弥家伝名物蝶」付焼失帳(写本)

金沢市立玉川図書館蔵

 本阿弥名物道具附」完(写本)

日本美術刀剣保存協会所蔵

  • 奥書 此一巻ハ享保二年戌年 有徳院様 本阿弥家業献候也 他見ヲ禁ル者ナリ
    • ※享保二年は、戌年ではなく酉年で誤記

 「諸家名剣集」

東京国立博物館所蔵

  • 内容概略

    諸家名剣集 享保四年亥十一月書上
     
        粟田口藤四郎吉光之部
    御物 厚藤四郎吉光 七寸二分 重四分 五百枚 銘有
     
    (中略、大波高木貞宗まで
     
       合百五十八
     
    一 爪トハ三鈷ナドノ下ニ有之爪バカリヲ云
    一 浮剣トハ樋ノ内ニ剣ヲ彫ケニシタルヲ云
    一 浮棒モ又コレニ準ズ
    一 影樋トハ切マデノ樋ハシノギ方ニ通ル是ト同ク横手ノ上マデ平地ノ樋カキ上タルヲ云
    一 添樋トハ切シノギノ内ノ樋ハ横手ノ上マデカキ上テモ添樋ハ横手ノ下マデニテ留是添樋ナリ
     
        焼失名物之部
    御物 骨喰藤四郎 一尺九寸六分 無銘
     
    (中略、綱切筑紫正恒まで
     
       右焼失物
        全七十九

  • 奥書

       戊子二月中浣 八十三翁謄寫一校了

  • 文政11年(1828年)に中村覚太夫が写したもの。
  • 158口、焼物79口 ※焼物の前に彫物に関する説明が5行ある。
  • 末尾に徳川宗敬の寄贈印がある。
    徳川宗敬は、水戸徳川家第12代当主・徳川篤敬の次男。水戸家13代の徳川圀順は兄。

 「刀劔名物志」

西尾市岩瀬文庫蔵

  • 「享保四己亥年霜月如此認上ル/本阿弥栄次郎ヨリ借用写」享保4年(1719年)の写し。
  • 巻頭「厚藤四郎〈七寸弐分銘有/五百枚重四郎〉/京都将軍家久公重代其後黙賢シテ摂泉之境ニ有其後黒田如水所持秀次公江渡ル秀吉公江上ル毛利甲斐守大江秀元拝領当甲州ヨリ家綱公江上ル千枚拝領」と厚藤四郎から始まる。

 「刀剣名物記」

西尾市岩瀬文庫蔵

  • 寸法、代金、所蔵先を示したもの。
  • 巻頭厚藤四郎から始まる。烏丸藤四郎清水藤四郎の記述から、流布本よりも前に書かれたものの可能性がある。

    厚藤四郎 七寸二分代金五百枚銘有 御城
    烏丸藤四郎 八寸代金三百枚銘有 烏丸殿
    清水藤四郎 七寸五分代金百五拾枚銘有 細川伊豆守/〈大御所様三月廿八日〈未考〉御成之節御献上トアリ〉
    毛利正宗 一尺六寸三分半代金百三拾枚象眼 土井丹後守
    福嶋正宗 二尺二寸九分代千貫象眼 浅野但馬守
    後藤行光 九寸九分代三千貫無銘 加藤和泉守

  • 巻末に補遺がある。
    • 〈尾張殿御所持名物〉補遺として7腰
    • 〈尾張殿御所持〉名物ニ可成物として3腰
    • 〈同〉同3腰
    • 〈尾張殿御所持〉珎賞之類として8腰
    • 熱田神社神宝として24腰
    • 古記録所載刀剣作者として刀工41人の銘鑑

 「刀剣名物略記」

東京都立中央図書館藏

和鋼博物館藏(「刀剣鑑定古書及刀剣名物略記」大正3年筆写)

  • 158口、焼失名物78口
  • 奥書より、嘉永2年(1849年)に研師の安達成直(定十郎)が書写。

 古今鍛冶名寄附属本

  • 静岡県立中央図書館葵文庫所蔵の「古今鍛冶名寄」に付属する名物本。
    上記リンク先の”画像データ”の全冊でイメージ画像を見ることができる。251コマ~287コマが名物帳部分。表示件数10件の場合は26/29以後。
  • 同書は表題の通り全国の鍛冶一覧から始まるが、四部のうち、途中本阿弥花押図を挟んで表題もなく「享保四乙亥年十一月改上」として名物帳が始まっている。
  • 概要

    都合百五拾八腰
     
    焼失名物
    〆七拾五腰
     
    右者本阿弥相傳秘書也他見不許
     文化二乙丑年八月

  • 御物厚藤四郎から始まる献上本の系統で、三作に続き相州貞宗が「以上〆拾八腰」と独立して小計が書かれる。また追記の部や昔之名剣御所之剣も含まれていない。
  • 記述される本数では健全刀158本+焼失刀75本となるが、途中の小計も誤っている。
  • 誤字が多く、内容的にも妙な箇所が多い。大典太、波遊が御物となっているほか、竹俣兼光が「行俣」に、凌藤四郎が「清」にそれぞれ誤字となっている。また流布本と比べて所蔵者が異なっている箇所が散見される。

 黒田家「御道具目録」

  • 福岡市博物館編纂の「黒田家文書 第3巻」(2005年)に「御道具目録」という文書が入っている。これも初期の名物帳の一種だと思われる。
    • 「10 黒田光之遺言他」-〔御腰物其外御道具類書付〕-「二一四 御道具目録(天和元~貞享元年)」
  • これは筑前福岡藩3代藩主である黒田光之が先年所望したため本阿弥方ゟ書付が上がってきたものだという。将軍家や諸大名が所持している名物刀剣の代金を書き上げた書付で、光之が五男の黒田長清(筑前直方藩主)に正宗を譲る際に参考として与えたものと考えられるとされる。同文書解説による。
  • 所載刀剣について
    • 御物 厚藤四郎から始まる、いわゆる将軍家献上本に近い構成となっている。
    • 吉光9口、正宗(刀)13口、正宗(短刀)16口、郷義弘12口、貞宗9口、その他11口の合計70口となっている。名物帳では吉光16口、正宗41口、郷義弘11口、貞宗6口となるため、本文書では郷義弘に関しては1口、貞宗については3口も多く書かれている(名物帳で削られた物がある)ことになる。
      さらにこのことから、いわゆる貞宗を含んだ名工四工から、名物三作(藤四郎吉光正宗郷義弘)に絞られる「前」に作成された文書であることが判る。また正宗については享保名物帳とかなり順序が異なっており本文書では正宗において刀を先に書くが、名物帳では御物 本庄正宗を除くと基本短刀先、刀は後ろとなっている。そもそも享保名物帳では刀と短刀が混在しており、その書き分けはさほど重視していないようにみえる。
       他に特徴としては、名物名の書かれていない刀剣が多数あること、いわゆる焼物が入っていないこと、名工四工以外の作者による享保名物とされる刀剣(例えば山城の宗近や多くの備前刀)がかなりの数抜け落ちていることが挙げられ、その割になぜか源来国次来国光、当麻、光包などが入っている。
  • 文書作成年代について
    • 同解説では、陸奥窪田藩3代土方雄隆が「土方伊賀守」と記載されていることなどを根拠として、文書の作成年を雄隆が伊賀守となった天和元年(1681年)~嗣子を巡る御家騒動により改易された貞享元年(1684年)の間と考えられるとしている。
    • しかし数点見るだけでも矛盾があり、例えば「大坂當麻 松平相模守殿 小三百五十枚」を見ると、この松平相模守とは鳥取藩主の池田吉泰であるとされ、名物帳の年代により「松平右衛門督」とされ、ある版では「松平相模守」とされる。黒田家文書でも「松平相模守」となっているが、吉泰が相模守になるのは享保14年(1729年)のことである。一方で黒田光之は宝永4年(1707年)に没しており矛盾する。寛政重脩諸家譜 第2輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション
      そもそも池田吉泰が生まれたのは貞享4年(1687年)、伯父綱清の養嗣子(つまり鳥取藩世継)となったのが元禄8年(1695年)、家督を相続し従四位下・侍従兼右衛門督となるのが元禄13年(1700年)である。文書作成年が不明だがそもそも池田吉泰を記載するには難しい点がある。ちなみに吉泰の実父・仲澄(壱岐守)、養父・綱清(伯耆守)ともに相模守ではない。要するにここは未来人が書いており、実態を言えば養父で先代の綱清(伯耆守、または元禄8年に左近衛権少将)であるべき。
       また文書を贈られた相手である黒田長清は、寛文7年(1667年)生まれ、元禄8年(1695年)に新田藩(筑前直方藩)主となり、享保5年(1720年)2月に54歳で死んでいる。
  • また「亀甲貞宗 右ニ土方伊賀守(雄隆)所持 刀 同代(二百枚)」という不思議な書かれ方をされている亀甲貞宗だが、3代藩主伊賀守雄隆のとき貞享元年(1684年)に土方家は断絶し貞宗も売りに出される。所伝では本阿弥光甫から南部藩の御用人赤沢某が150両で買い、4代藩主である南部行信へ献上されたとされる。光甫自身が天和2年(1682年)没であり、本阿弥を通じての取引にも関わらずまだ「土方」と書かれている。仮に「右ニ」が右に同じつまり1つ前と同じ御物であるとすると、献上されたのは元禄11年(1698年)の尾張家御成の際である。
  • 他にも細かな矛盾点はいくつもあり、個別刀剣により書かれている年代にぶれがある。結局言えるのはこの記述内容を元に文書作成年を特定することは相当難しいということである。
    これはそもそも本阿弥家を通じた取引や鑑定などからのみ本阿弥家で把握しており、それ以外の取引譲渡を把握できていないからだと思われる。ただこれは黒田家「御道具目録」に限らず、享保名物帳自体が主にそうして成立していることから仕方がない状態である。また「右之通ハ先年(略)年数久敷罷成候間、今程代上候も多可在御座候と奉存候」と書かれているように、文書自体が後代に書き写された際に追記・修正された可能性もあるのではないかと思われる。特に下線部分はそれを強く示唆するものだと思われる。
  • また同解説では「なお、単位の枚は大判(10両)の数で、小判の場合は「小」と記されている」としているが、これは鑑定金額ではなく恐らく刀のサイズのことではないかと思われる。つまり「小」は短刀を、それ以外は(亀甲貞宗など)「刀」と記してある。
    また文書頭から「右者小脇指也(以上短刀)」「右者刀也(以上刀)」などと、三作までは筆者が長短で分けて書いていることからもそうであろうと思われる。「小」「刀」表記が現れるのは貞宗以降であり、代わりに「右者」が消える。

 本阿弥家調査記録写し

 「刀剣名物帳」(芍薬亭本の写本)

国立国会図書館所蔵

 「刀剣名物帳」(質直本の写本)

日本美術刀剣保存協会所蔵

  • 奥書 時安政四年(1857年)四己年二月 下谷西街道 菅原質直(花押)
  • 菅原質直は本阿弥又四郎

 名物帳」(求与本)

日本美術刀剣保存協会所蔵

  • 奥書 此書本阿弥正三郎ヨリ借得テ写置モノナリ 弘化二己年(1845年)四月吉日 星野求与
  • 星野求与は、徳川家斉の頃の江戸城の茶僧

 名物集」

東京国立博物館所蔵
徳川宗敬氏寄贈印

  • 「松平加賀守殿 平野藤四郎」で始まる。大典太、童子切で終わる。
  • 途中「右三作名物合六拾七腰」
  • 「嘉永元暮秋 校書之」




 享保名物の偏り

  • 享保名物帳に載っている刀剣を、享保名物と称する。
  • 多くは将軍家と御三家、有力大名により占められた。
  • また名物の中でも、三作と称される吉光正宗郷義弘の作がずば抜けて多い。

 藩別所蔵数

藩名所蔵数
将軍家30口
前田家24口
尾張家(御三家)17口
紀州家(御三家)10口
水戸家(御三家)4口
津山松平6口
黒田家7口
池田、島津、伊達4口
浅野、稲葉、水口加藤3口
奥平、阿部、大久保、井伊、
本多、鳥取池田、京極
2口
他二十余1口

 名物の中の三作

  • 「現存」は名物帳記載当時。
刀工区別一覧
吉光現存
(16)
平野藤四郎烏丸藤四郎岡山藤四郎厚藤四郎信濃藤四郎増田藤四郎後藤藤四郎前田藤四郎朝倉藤四郎清水藤四郎毛利藤四郎博多藤四郎鍋島藤四郎岩切藤四郎乱藤四郎(以上14口在銘短刀)、朱銘藤四郎(短刀)、無銘藤四郎(短刀)
焼身
(18)
一期一振骨喰藤四郎、大坂新身藤四郎、江戸新身藤四郎豊後藤四郎長岡藤四郎車屋藤四郎米沢藤四郎、凌藤四郎(鎬藤四郎)、親子藤四郎庖丁藤四郎飯塚藤四郎薬研藤四郎大森藤四郎塩河藤四郎真田藤四郎(以上14口在銘短刀)、樋口藤四郎(朱名短刀)、鯰尾藤四郎(在銘脇差)
正宗現存
(41)
後藤正宗中務正宗池田正宗早川正宗福島正宗(以上5口象嵌極め短刀)、本庄正宗会津正宗若狭正宗篭手切正宗(切付)、式部正宗太郎作正宗島津正宗観世正宗敦賀正宗石田正宗武蔵正宗大垣正宗(以上12口無銘刀)、夫馬正宗不動正宗(以上2口在銘短刀)、和歌山正宗朱判正宗芦屋正宗(以上3口朱銘短刀)、小松正宗岡本正宗前田正宗伏見正宗金森正宗九鬼正宗日向正宗倶利伽羅正宗豊後正宗道意正宗堀尾正宗宗瑞正宗一庵正宗小玉正宗庖丁正宗庖丁正宗庖丁正宗(以上17口無銘短刀)、小池正宗(無銘寸延び短刀)、毛利正宗(象嵌極め銘脇差)
焼身
(18)
江雪正宗(在銘短刀)、石野正宗(象嵌極め銘刀)、石井正宗笹作正宗伏見正宗菖蒲正宗長銘正宗(以上4口無銘刀)、大坂長銘正宗、江戸長銘正宗(以上2口在銘短刀)、若江正宗三好正宗対馬正宗大内正宗片桐正宗八幡正宗黒田正宗二筋樋正宗上下竜正宗(以上9口無銘短刀)、横雲正宗(朱銘短刀)
郷義弘現存
(11)
稲葉郷北野江桑名江(以上3口象嵌極め銘刀)、松井江(朱銘刀)、富田江中川江五月雨江鍋島江横須賀郷(以上5口無銘刀)、長谷川江(無銘短刀)、篭手切江(象嵌極め銘脇差)
焼身
(11)
常陸江、上野江(以上2口象嵌極め銘刀)、三好江大江西方江上杉江甲斐江鉢屋江肥後江桝屋江(以上8口無銘刀)、三好江(無銘短刀)

 消失品

  • 明暦の大火により、江戸城に収蔵してあった刀剣類として三十振入りの刀箱三十個のうち、二十五箱が焼けたという。


 様々な分類で見る名物

  • 享保名物帳に掲載される名物を様々な視点で整理する。

 名物の指定区分

 時代・長さ種別

時代種別焼身
太刀短刀寸のび脇指太刀短刀寸のび脇指
平安600006200002
鎌倉1719582399156362261
南北朝13418736301411117
総計245376961681720373380
  • 「寸のび」は寸のび短刀の意

 太刀と刀

  • 平安から鎌倉にかけてはもっぱら太刀が用いられたため、多くなっている。南北朝に太刀が大幅に減り刀が増加しているのは、元来太刀で作られたものを実用上の都合から大磨上をして刀に模様替えしたためである。この大磨上は、ほとんどが室町末~桃山(永禄~慶長年間)になされた。
  • 鎌倉期の刀は、健全刀と焼身あわせて25口あるが、内訳は五郎正宗が22口、南泉一文字千鳥一文字骨喰藤四郎である。
  • 南北朝期の刀は48口で、郷義弘18口、左文字9口、貞宗6口、兼光3口、末青江貞次2口、志津3口などとなっている。
  • これら鎌倉期、南北朝期あわせて73口のうち大部分は大磨上無銘であり、そのうち五郎正宗6口、郷義弘5口、左文字4口、兼光3口、末青江2口、へし切り長谷部と大三原の各1口の計22口は金象嵌での極め銘がなされている。さらにそのうち過半数の13口は本阿弥光徳の極め銘である。

 短刀

  • 鎌倉時代は短刀の黄金時代であり、数多く選ばれている。
    • 在銘は53口(4口の正宗含む)
    • 無銘は33口。正宗26口、行光3口、当麻2口、吉光と光包が各1口
    • 朱銘が8口

 寸延び短刀

  • 鎌倉末から寸延び短刀が登場する。
    • 在銘は5口
    • 無銘が6口
    • 朱銘が1口
    • これら短刀には象嵌銘はない。

 脇差

  • 脇差は在銘3口、無銘3口、朱銘1口、象嵌銘2口。

 特殊なもの

 槍・薙刀

 打刀・脇差

 朱銘




 刀工別の集計

刀工口数焼身
正宗411859
吉光161834
貞宗20323
郷義弘111122
左文字922
  • 粟田口吉光を除くと、正宗貞宗郷義弘、左文字、志津、來国次、來国光、兼光などいずれも鎌倉末期から南北朝にかけての相州物である。
  • 正宗貞宗で九二口で33.7%、その他相州物を合計すると一四八口(国光二口、行光四口、長谷部国重一口、広光一口、則重一口を含む)にもなり、これは全体の六割となる。
  • 逆に少ないところを見ていくと、筆頭は備前物で、古備前派包平一人、一文字派が則宗と則房だけとなっており、長船派でも光忠長光兼光だけとなっている。古備前派では友成正恒、一文字派では吉房や助光、長船派では景光真長近景長義らを欠いており、ほかの備前物では助実、国宗、守家、雲類(雲生、雲次、雲重)が欠けている。同様に備中物でも古青江派を恒次ひとりに代表させ、貞次や為次らをあげていないし、末青江では恒次をあげるが守次や次吉、次直らを漏らしている。
  • これは当時の室町期~桃山期にかけての新興武士の名刀感を如実に示すものである。

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